2020年4月15日水曜日

内灘巡り(1)粟崎遊園

今回は「粟崎遊園」について、調べてみたいと思い「内灘町歴史民俗資料館」に行った。ここでは、「粟崎遊園」や「内灘闘争」など、内灘の歴史を知ることができる場所である。



















かって「北陸のパラダイス」といわれた「粟崎遊園」は、金沢の近郊の粟ヶ崎の砂丘につくられた。兼六園の倍近い敷地には、1000畳敷きの大広間、料亭、洋食堂、遊技場、大浴場や動物園、野球場、スキー場などもあったという。





















遊園地とそこに客を運ぶ浅野川電鉄(通称浅電)が営業を開始したのは1925(大正14)年で、創始者は「北陸の材木王」といわれた、金沢の商人平沢嘉太郎である。
石川郡田井村(現金沢市田井町)の農家に生まれた嘉太郎は、その才能を見込まれて、下今町(現尾張町)に店舗を構える商家平澤家の養子となった。(この場所は以前は料理屋だったが今は駐車場になっている)頭角を現した嘉太郎は財を成し、大正から昭和初期に、金沢駅裏に広大な貯木場を持ち、県会議員も務め、金沢を代表する大商人となった。
























平澤は阪急電鉄、そして「宝塚」の創始者である小林一三の影響を受けたといわれる。すなわち、小林の経営戦略、都心のターミナルステーションと終点の行楽地を鉄道で結び、新しいライフスタイルを定着させるという「阪急」「宝塚」の北陸版であったという。



















粟崎遊園の呼び物は少女歌劇団によるレビューであった。当初「連鎖劇」の川上一郎率いる大衆歌劇が人気を得たが、1931(昭和7)に川上は没するとともに打ち切られ、宝塚少女歌劇団を模範としてスタートしたレビューが、変わって大好評を博したという。
























1934(昭和9)年には、鴨井悠の脚本、音羽君子、三浦歌津子らによる「春のをどり」バラティーが上演された。これがさらに少女歌劇団の真価を高め、その後、数々のレビューは、壬生京子やミラノマリコらの地元スターを輩出した。
























粟ヶ崎海岸はもともと海水浴場であり、その主役が子供たちであり、海水浴場とならんで彼らのお目当ては「コドモノクニ」だった。砂丘に広がる子供の国の門をくぐると名物の「大山すべり台」があり、人気の的だった。他にも動物園や野球場などがあり、まさしく遊園は子供たちの「夢の国」であった。



















この粟崎遊園で閉園まで実際に使われていたという素晴らしいピアノ「アップライトピアノ」が展示されていた。



















1930(昭和5)年ころ、浅電、粟崎遊園周辺では独特のファッションのラッパズボンに麦わら帽子のモダンボーイ(モボ)ローウェストの服に断髪のモダンガール(モガ)が流行していた。粟崎遊園は当時流行の発信地として若者のあこがれのスポットであったという。
























こうした金沢のモダニズムを象徴した「粟崎遊園」であったが、太平洋戦争を契機に休業を余儀なくされてしまい、戦局の悪化が「遊園」の継続を不可能にし、ついに施設は徴用され、軍需産業の疎開工場と化するに至った。
戦後「遊園」の建物は、1951(昭和26)年のオリンピック博覧会に活用されたのを最後に解体処分され、パラダイスは永久に姿を消してしまったという。
現在は、この「内灘町歴史民俗資料館」の横の公園に、わずかに残る本館正面のアーチのみが「夢の跡」を伝えている。
























こうして平澤の夢は、結果的には「砂上の楼閣」「真夏の夜の夢」と潰え去った。それに比較して、戦時中は一時客足が遠のいたが小林の「宝塚」や当時の郊外遊園地のいくつかは今なお盛況を保っている。小林の発想は、都心のターミナルステーションと終点のレジャーランドを線路で結び、その両側に文化住宅を建設し、これにより平日は都心へ、休日は郊外のレジャーへといった新しいライフスタイルを定着させたことによるという論理である。そして分譲地と都心を結ぶアクセスが確保されれば、所有している土地が売れ、購入した客は、そのまま鉄道の客となり恒常的に運賃を払うというサイクルが繰り返されたという。金沢と大阪・神戸などと人口のスケールも違うし、平澤は市民のための別荘を建てることが夢であったが、市民は小住宅を求めていたなどというミスマッチがあったことが挙げられる。