「内灘闘争」は、砂丘を舞台に取り込まれた戦後初の基地反対闘争である。1952(昭和27)年在日米軍は、朝鮮戦争を背景に日本での砲弾試射場の提供を要求、政府は内灘を候補地とした。これに対し地元住民は反対運動に立ち上がり、政党・労働団体・学生・知識人などの支援を得て、全国的に注目される基地闘争へと拡大した。
しかし翌1953(昭和28)年からは試射が始まり、政府は試射場の永久使用の方針を決定、これに対する住民の陳情や座り込みがくり返された。内灘の人は漁民が多く、男は県外の海へ出かけていないので、デモの参加するのは金沢の町へ魚の行商をする女の人が多かったという。
政府は石川県選出の参議院議員林屋亀次郎を接収担当の国務大臣にして説得に当たらせた。
1953年の参議院選挙で接収反対を掲げた井村徳治が林家を破って当選したが、当時井村は片町百貨店を経営していて、一方林家も武蔵が辻の丸越百貨店を経営していたことから「武蔵大和の日本海決戦」という言葉で白熱した選挙戦となったという。
その後、村内の分裂、試射場の強行などによって運動は次第に弱まり、同年9月に村は試射場の使用を3年間認め返却することで妥協に至った。具体的には漁業という「金」、河北潟の干拓、開拓、道路建設などの補償事業を取り付け、これらの補償は村民を変え、意識を変え、また内灘も大きく変えてしまったという。補償の評価は内灘住民にとっても一様ではないが、いずれにしてもこの闘争は全国の基地闘争に大きな影響を与え、「草の根民主主義への出発点」と高く評価されているという。
そういえば私が小学生の低学年のころ、街中では聞こえなかったが卯辰山に上がったときに、建物などの遮蔽がないので海方向から「ドーンドーン」と試射場の音が聞こえたのを覚えてる。
「郷土内灘」より
試射場として使われていた砂丘地の様子
「郷土内灘」より
米軍の試射風景
「郷土内灘」より
金沢をこよなく愛する「五木寛之」氏が、早大1年の時に県庁前の「内灘闘争」のデモに参加したと聞いている。また、私が20代の前半に「五木寛之」氏の作品「内灘夫人」を読んだことを思い出した。ストーリーは全く覚えていないが、内灘闘争に参加し、結ばれた学生夫婦を主人公にし内灘闘争と学生運動の状況をめぐる物語だったという。小説の最後には「さようなら、私の内灘 私の青春」と結ばれている。
「新金沢小景」より
いまは内灘にある権現森のニセアカシアの林の中にひっそりと残るコンクリートの「着弾観測所」の建物だけが、約65年前の米軍の砲弾射的場の名残をとどめている。
「新金沢小景」より
また、内灘闘争を背景に映画化されたという「非行少女」の主演の和泉雅子と浜田光夫が写っている写真が展示されていた。この映画を私は香林坊の「大神宮さん」裏にあった映画館「金沢日活劇場(?)」で見たことを覚えている。映画の中で二人が「金沢弁」を使っていたが、しゃべり方が面白く館内で大笑いが出たのを思い出す。
他に、「内灘闘争」真っ最中の頃に「バカヤロー解散」で有名な吉田茂首相が、後に林屋亀次郎の喜寿祝に金沢に来た際に、内灘試射場跡を訪れた写真も掲載されていた。