2023年2月18日土曜日

13代藩主の能登巡見巡り(4)上時国家①

 13代藩主の能登巡見巡り(3)宇出津②の続きで、宇出津で昼食をとった後、輪島の町野方面に向かった。町野川に沿った県道を走り、外浦に出る少し手前の右側に「上時国家」がある。




















13代藩主斉泰が能登巡見で、「上時国家」で宿泊しているが、ここに入る前に「町野川」を渡るときに、その当時の川幅は36m(20間)あり、両岸から太綱を張り、その間に周辺の村人が所有する船を何隻も並べ、船上に板を渡し、土を以て仮橋としたという。そこを700人の行列が渡ったという。






ゆるいスロープを上がると門の奥に立派な「上時国家
」住宅が見える。


















「上時国家」の敷地内の配置図

























ここで、「時国家」の歴史について紹介する。上時国家より300mほど北に重要文化財の「下時国家」がある。両家は町野川河畔に屋敷を構えていた時国家が分家して二家に分かれた経緯があり、同じ平大納言時忠の末裔である。この時忠は、1185(文治元)年に壇ノ浦の戦いの後に能登へ配流となり、船で能登の国へ着いたという。はじめは浦で生活していたが、その後3kmほど内陸は入った南の方に屋敷を造った。しかし時国家の代になり、屋敷を盗賊に襲われたため、一旦山の中の避難し、時代が安定したころに町野川沿いに田畑を耕作するしたり、製塩や海運などを手掛け繁栄をつづけた。その後、大きな村をつくりその一帯を治める大きな勢力となった。能登は加賀前田藩領となり、今から400年前の12代籐左衛門には男子がなく、甥を養子にして家を継がせたが、まもなく男子が生まれたので、時国家の1/3を切り分けてこの実子に次がせたのが分家の「下時国家」の始まりという。これより当家は「おもや」、「上時国家」tぴょばれるようになったという。江戸時代中頃から天領大庄屋として13カ村を束ねた。そして北前船でも成功して立派な屋敷を建てることができたという。この頃には、常時120人の人々が上時国家に関わる仕事をしていたという。
























江戸後期に21代当主が現在の巨大で格式高い屋敷を28年かけて名工「安幸」が建造した。現存する近世木造民家としては建坪189坪の最大級だという。屋根も入母屋茅葺のもので、大屋根の高さは18m、棟が高く軒が深い。大屋根を支える巨大な梁は、周囲が2mの松の木を使用しているという。一段下には桟瓦葺きの庇が四方に廻りっている。

















総ケヤキ造り唐破風の正面玄関も民家としては珍しい。



















大庄屋屋敷として表向きに公用部分と宇荒向きに私用部分に分けられている。


















大広間から見る「上段の間」、「下段の間」そして「大広間」の襖には、家紋である平家定紋の「丸に揚羽蝶」を金箔で描いて連ねている。「あげは」は羽を広げて上の方に上げた格好のものである。



















大広間の天井は黒漆の「縁金折上格天井」で、最上の次の位を表し、主賓の次に位するものだけが入室できるという。
































座敷の境上部には両面彫りの欄間を飾り、御膳の間の欄間は蜃気楼を彫った珍しいものだ。


















この大納言の格式を持つ「縁金折上格天井」の「大納言の間(別名御前の間)」には「能登巡見」で13代藩主斉泰がこの部屋に宿泊した際に「余は中納言であるのでこの部屋に入れぬ」と言って、この部屋の天井の隅に紙を貼って格式を下げて入室したと伝えられている。














時国家の良いところは、こういう内部のしつらえもさることながら、数百年の時代経過にもかかわらず、建具の一つ一つが大変保存状態がよいのに驚く。