木屋藤右衛門の歴史(2)の続きで、現在の「木谷公園」の場所にどんな屋敷があったのか、調べた資料を紹介する。
現在の「木谷公園」の入口
下図は加賀藩お抱え絵師「佐々木泉玄」が描いたもので、おそらく幕末の頃(1840~60年)のものだろうか、その繁栄ぶりが分かる。
藩政期には、木谷家の中心的事業の事業であった海運業は、天明の頃をピークとして、後は少ししづつ減ってきて、明治初年の頃にはわずか持舟四隻にしかすぎず、海運業としての実態は
失われていた。さらに明治14年には三隻残っていた船も売却して、海運業とこれに関連した材木商売は完全に終わった。
続いて藩政期からも行っていた金融業でやっていこうとし、算用場跡につくられた「金沢為替会社」(石川県の近代的な銀行の先駆け)に、豪商グループの島崎徳衛門、木屋次郎、および越中伏木の藤井能三らとともに惣頭取役となっている。この為替会社は改組して北陸銀行と名乗っている。(今の北陸銀行とは別のもの)
ところが明治17年の経済恐慌のあおりを受けて、同19年に閉鎖した。頭取であった藤右衛門は、財産差し押さえられ、競売にかけられるひどい目にあい、木谷家の経済構造は深刻な打撃を受けた。
他に下堤町に第十二銀行の副頭取として参加している。この銀行は旧藩主前田家が14万円、木谷家が2万円、残りを4人が出資している。そして銀・銅を算出するとして岐阜県の美濃畑佐鉱山に木谷一門をあげて投資し、直接経営にあたったという。しかしこれもうまくゆかず大きな欠損を残して関係を絶ったという。
さらに、株式投資をはじめ砂金採取、養鶏、桐苗植え付けまで手を出したが、ことごとく失敗で損失が大きくなっていく。ということで明治以降は、懸命の努力にもかかわらず木谷家の家運は次第に衰えてきた。
ここで、13代藤右衛門は大正6年に居を金沢市彦三へ移し、その後御殿といわれた邸宅や名園と言われた庭園もすっかり取り払われ、最後に残っていた赤レンガの高い塀も取り壊され、現在の木谷公園となり、名残をとどめる老木のみとなったという。
御殿と言われた12代藤右衛門の奥座敷
木谷本家の引っ越し先彦三の庭園は、昭和2年の彦三大火によって全焼したが、室生犀星が「木藤の庭」と題する一文を公しているほど、庭園規模は小さいながらも兼六園に次ぐ立派な名園であったと人々はその焼失を惜しんだという。
そして13代藤右衛門は、いわゆる木屋大尽と呼ばれるけた外れの豪遊ぶりによって、これまでの百万長者の家運にあって、木谷家を没落に導いたといわれる。