2022年12月5日月曜日

木屋藤右衛門の歴史(2)

 木屋藤右衛門の歴史(1)の続きで、さらに木屋家の歴史について調べたので紹介する。

5代、6代は木屋家の全盛期でしたが、6代の終わりごろに11代藩主治脩に変わって藩政にあたっていた全藩主重教の死をきっかけとして、重教を信任していた腹心の部下が失脚し、これに関連して木屋家の隠居していた父と6代当主が入牢を命ぜられ、商人として順風満帆の勢いがあったが、一転して奈落の底においこまれた時間があった。1768(天明6)年に木屋家は突然藩の盗賊改め方の役人に踏み込まれ、隠居の貞悦と6代目藤右衛門が逮捕連行され、家財や関係書類を没収され運命となった。御改法に便乗して儲けを企てた商人たちが権力に接近したと思われる。













6代は罪を許された後に、家産の回復に努め、7代も商いに努力し藩も富商と連携する政策に変更し、その結果5年後には再び豪商と呼ばれる地位に返り咲いた。

二の丸御殿消失の際には、5年間で300貫もの冥加金つまり寄付金を差し出し藩の貢献している。7代は、藩の450貫の負担には応じきれずに、10年間の調達用捨を願い出ている。もっともこの額は、当時の木屋家にとっても過重負担で、これを受け入れれば、同家の経営はもちろん、木屋の保護によって生活に糧を得ていた粟崎村民にとっても路頭の迷ってしまうことから、村民200人が大野川を渡り「金沢城」の向かって「食えぬ、食えぬ」と大声で叫び、翌日総代20人が、藤右衛門の負担を減らしてほしいと役所に願い出たという。このことが寺島蔵人が描いた「ふぐ汁の咄」にみえるという。しかし引き続き莫大な御用銀を出していた。藩も無理を承知の上で賦課と分かっていたが、木屋家にとっては苦渋に満ちたものであった。しかしこのことが藩の信任を得ることになり御扶持高50石が給せられるとともに「御郡方年寄列」および「御銀高御用」を命ぜられた。

1844(天保14)年の江戸城炎上の際に、加賀藩が幕府から8万両のさし上げが命ぜられたとき、木屋家は単独で銭屋五平五兵衛の1.5倍にあたる300貫の御用銀を負担している。

天保年間の長者番付には、東の三井、西の木屋といわれるほど広く知られ栄華を誇っていたことが分かる。
















寛永年間や天保年間、安政年間に木屋家の持ち船を見ると、「大徳丸」や「万福丸」など10数隻から20数隻と多くの船を持っていて、多額の富が得られたということが想像される。











しかし、豪商としての木屋家は順風満帆ばかりではなく、いろいろ困難な問題があったという。例えば大名貸しなどでは、貸し倒れが多くあったという。そのひとつに富山藩融資の焦げ付きなども挙げられる。すなわち大名は借りるときは、腰を低くして窮状を訴えながら、返済の段になると返そうとしないため結局泣き寝入りをざるを得ない場合もあったという。その金額が大きい場合は、致命的な打撃になってしまうという。

また、船商売には海難事故、すなわち海上輸送における船の難破があり、大きな損害を被ることもあるという。その例としては石見の国すなわち島根県の浜田沖で暴風雨にあい、難船し漂流しているうちに近くの湊口に漂着し、船は暗礁に乗り上げ、高波にもまれ浸水し、沈没したという。これも大半の荷物を失ったことから大きな損害になった。

こういった海運業のリスクがあることから木屋家が幕末になると次第に海運業から離れて土地投資業に向かっていたものと思われる。

ここで、もう一つの宮腰の商、銭谷五平と木屋家の違いについて考える。

私もそうであったように、銭谷五平についてはある程度知っていたが、木屋家のことはあまり知らないという人が多い。これは銭谷五平の生涯があまりにもドラマチックであり、木屋家は陰に隠れてしまったこととや木屋家の資料が明治末に分散され全く解明できない反面、銭谷五平の書物は多く出ていることがあげられる。

両者の違いは、歴史的に見た活躍期では、銭谷が藩政期末の銭五一代の繁栄に対して、木屋の場合は藩政期の中期から明治期にいたるまで繁栄が持続されたことと銭五の場合は、物語化し演劇に取り上げられるなど世の中に大いに知られたが、木屋家の場合はそういうことはなかったことが挙げられる。

銭五の肖像画























銭五の航路