2022年12月26日月曜日

東京(3)品川神社①

 東京(2)北品川商店街の続きで、その後歩いていくと「第一京浜」の大通りに出る。この通りの向かい側の森の中に「品川神社」が見える。



















「品川神社」の由緒は

今からおよそ800年程前の平安時代末期の文治3年(1187)に、源頼朝公が安房国の洲崎明神(現・千葉県館山市鎮座 洲崎神社)の天比理乃咩命を当地にお迎えして海上交通安全と祈願成就を祈られたのを創始とします。

やがて、鎌倉時代末期の元応元年(1319)に二階堂道蘊公が「宇賀之売命(お稲荷様)」を、さらに室町時代中期の文明10年(1478)に太田道灌公が「素盞嗚尊(天王様)」をそれぞれお祀りしました。

慶長5年(1600)、徳川家康公が関ヶ原の戦いへ出陣の際に当社へ参拝し戦勝を祈願され、その後、祈願成就の御礼として仮面(天下一嘗の面)・神輿(葵神輿)などを奉納されました。

また、寛永14年(1637)三代将軍徳川家光公により東海寺が建立され当社がその鎮守と定められ、「御修覆所(神社の建物の再建・修復などは全て幕府が賄う)」となり、元禄7年(1694)・嘉永3年(1850)の二度の社殿の焼失の際には時の将軍の命により再建が行われる等、徳川将軍家の庇護を受けました。

時代は明治に移り、同元年(1868)11月には明治天皇様が新都・東京の安寧と国家の繁栄を御祈願されるために、当社を含んだ都内の十の神社を「准勅祭神社」と定められ、御勅使が御参拝になられ御祈願をされました。

大東亜戦争の折は、当社は幸いにして戦火を免れましたが、社殿の老朽化が進み、昭和39年(1964)氏子各位の御協力により現在の社殿が再建されました。

そして、令和2年(2020)に天皇陛下の御即位を奉祝し、「御大典記念事業」として、御社殿の修復を行いました。(品川神社HPより)



















ここの鳥居には、珍しく両側に龍が彫られている。東京には他に二つの神社しかないという。神社に入る階段は結構急である。



















右側には大きな亀の形をした石の上に「品川神社」の大きな標柱が載っている。左側には七福神のひとつ「大黒天」の石造が置かれている。


















階段の途中の左側に、また小さな鳥居があり、その先には階段が付いている。


















ここは、東京にいくつかある「富士塚」のひとつの「品川富士」である。階段入り口に「登山道」の石柱がある。「富士塚」とは、富士山信仰に基づいて、富士山を模して作られた山型の塚である。実際の富士山は遠くてなかなか行けないが、この「富士塚」を上ることで本当の富士山に登ったと同じご利益があるという。このような神社は都内に80個もあるという。


















この品川富士は、東京内では最大高さの15mを超えるもので、明治2年から5年にかけて作られたという。登山道の途中には大きな石に表面には何か彫って描かれたものや小さな祠などが置かれている。


















途中の階段は急で狭いので鎖が横についている。また、階段に沿って「1合目」から「九合目」までの小さな石柱が立っている。荒々しい雰囲気の大小の岩石が連なっている。


















「八合目」当たりの高台からは、都心方向に高層ビルが乱立しているのが見える。ビルがまだあまりなかった頃には、ここから隅田川の花火が見えたという。


















さらに頂上の方には、細かい岩石がいっぱいあり、いかにも富士山を上っている気分になり、よく作ったものだと感心する。


















階段を上がると、中央に参道があり拝殿前に小さな二の鳥居、三の鳥居がある。三の鳥居は1648(慶安元)年にこの神社の元別当寺である東海寺を建立した三代将軍徳川家光の側近・堀田正盛により寄進されたもので品川区の指定文化財だという。


















拝殿は赤色と金色が入った鮮やかな色の建物できれいである。実はここで私の子供たちが、「お百日祝い」や「七五三」をここでお参りした。もう何十年も前なので、どんな拝殿だったかすっかり忘れてしまっている。