2022年12月13日火曜日

木屋藤右衛門の歴史(4)

 木屋藤右衛門の歴史(3)の続きで、時代は前後するが幕末から明治初期には、天下の豪商として木谷家は寄進したりなどいろいろと地元に貢献していている。

有名なのは、兼六園のシンボル「ことじ灯篭」で13代斉泰公に献上したといわれている。




















また明治維新には前田家から、現在の「尾山神社」境内である「金谷出丸」の土地を購入している。その後に尾山神社拝殿・本殿や神門などが建てられている。
























そして木屋藤右衛門がら名称を変えた「木屋藤十郎」は、明治維新で武士がいなくなり、さびれた金沢の町を取り戻そうすために、産業を盛んにしようということで、1874(明治7)年に「成巽閣」で「金沢博覧会」を開催した。陶器や漆器など6200点余りが展示され、特に注目を集めたのは名古屋城から降ろされた「金の鯱」だったという。
















ここで、木谷一門ついて話をすると、まずは島崎徳兵衛家はあるが、歴代に渡って木谷家と養子縁組や婚姻関係のあり、代々徳兵衛を名乗り、幕末の頃には渡海船11隻を持つ海運業であり、盛んに活躍している。また、木谷次郎家は7代藤右衛門の妹をもらい分家したもので,持舟6隻を持ったこちらも海運業で、加賀藩の「おかね御用」も務めた家である。明治になってからは金沢為替会社や十二銀行の設立にも中心的な役割をしている。
もう一人は明治から昭和にかけて、経済活動と晩年における社会事業などの援助に力を注いだ木谷吉次郎について述べる。この人は、現在の「木谷公園」の一角に地元粟崎の住民らにより顕彰碑が建てられている。
木谷吉次郎の功績が刻まれた石碑


















木谷吉次郎氏は、1858(安政5)年に木谷家の分家に生まれ明治16年に家督を継いだ後、従来の家業に見切りをつけ明治20年に日本米輸出の有望さに目を付けた吉次郎は、イギリス人のE・H・ハンターなどと神戸に日本精米会社をつくり、この経営に全力を傾け、海外に日本米の声価を高めるとともに、日清・日露の戦役には軍用米の調達に功績をあげている。
その他多くの会社に関与し、株式投資などで巨額の財を築いた。
大正11年に郷里粟崎に帰り、育英事業に注ぎ、また海外留学の学者、研究会、学校、図書館などにも多額の資金を寄付され、また。社会公共事業に投ずるなどした。しかも育英資金は返還を求めず、寄付なども公にせず陰徳に徹しておられたという。さらに禁酒運動を率先して行い、翁の提唱で村をあげて禁酒を宣言し断行したこともあった。そして昭和7年には村長の職に付き、砂丘の植林、大野川の改修、金沢市の編入など村の事業の改善に尽くした。
翁は生涯を通じて書を読み、実践を重んじ質素から陰徳を旨とし、昭和24年に92歳で亡くなったという。
吉次郎の家は、藤右衛門家に接して建てられていたが、本家が粟崎を離れたあとは、その屋敷を買い求めたため2000坪の宏大な屋敷地になっていたが、妻に先立たれおり子供もいなかっため、吉次郎の意思に従って金沢市に管理基金を添えて寄贈されたという。
























同じ時代に生きたこの「木屋吉次郎」ともう一人の「木屋大尽」との生き方のあまりにも大きな違いが粟崎住民にとっては天と地の差があったろうと推測される。