2022年5月2日月曜日

城北通(3)旧森下町③

 城北通(2)旧森下町②の続きで、もう一つ奥の観光バスの駐車場の向かいには、九谷焼やガラス器などのアンティーク商品で有名な「眞美堂」がある。その隣には金沢市立「安江金箔館」がある。東山茶屋街付近は昔から金箔を作っていた所で、民営の金箔館がいくつかあるが、ここは公営の金箔館である。私も一度は入っがことがあるが、金箔に関する美術品や金箔の性質などを紹介し、厚さ1万分の1ミリメートルの金箔の作り方の工程などを紹介している。




























「東山」の交差点を斜め左に曲がった所に「旧森下町」の標柱がある。「藩政初期、森下村の郷士、亀田大隅の子孫が染工になって居住していたので、この名がつけられた。本町の一つ」とあった。
























その先に大きな建物「馬場小学校」がある。明治3年に「馬場小学所」として設立され、明治20年に「馬場小学校」となったというから、もう150年以上になる。




















ここの校門の右手に、かってこの学校で学んだ三人の文学者、幽玄の世界の語り手の「泉鏡花」、自然主義文学の「徳田秋声」、歌人の「尾山篤二郎」を顕彰する「文学の故郷」として碑が建てられている。金沢伝統の黒瓦、土塀の白壁に「川端康成」の筆になる三人の代表的作品の一説が刻まれている。

































木の案内板に「徳田秋声」、「泉鏡花」、「尾山篤二郎」の年譜が描かれていた。3人とも大体同じころの明治10~30年代に馬場小学校を卒業している。


















この三人のほかに、深田久弥(火にも水にも)・古井由吉(雪の下の蟹)・五木寛之(浅野川暮色)・森山啓(市之丞と青葉)・水芦光子(雪の喪章)なども、この辺りを小説としたものがあり、浅野川のほとりを散策して、作品に出てくるようなしっとりとした情緒に満ちた雰囲気が、今でもそのまま残っている所である。


















下図の藩政期の古地図の人持ち組「横山中務」の屋敷辺りが今の「馬場小学校」となるが、この辺りは、小松城に隠居していた3代藩主利常が亡くなった後、小松にいた藩士が残らず帰ってきて、この辺りに住居を構えたという。また、足軽組地もあった。
























「馬場小学校」の裏辺りの小路


















東インター大通りを超えると、ここに明治の中頃から金沢醤油醸造業が、組合員数36人で設立された。商業が活発になり、それにつられて資金を貸す銀行などもできたという。そしてこの街中に味噌や醤油などの醸造する工場があった面影が今でも残っている。今は大通りに面した町家を買い取り、「本江屋酒造食品」として味噌や醤油、梅干しなどを販売している。