2022年3月22日火曜日

尾崎神社(1)藩政期の御宮

今回は、昨年11月に「尾崎神社」について研修と拝殿・本殿の中を見せていただいたので紹介する。

「尾崎神社」は、もと金沢城内北の丸にあった「金沢東照宮」、「御宮」と呼ばれた由緒ある神社である。「金沢東照宮」は、1643(寛永20)年に創建されたが、廃藩置県後の1874(明治7)年に「尾崎神社」に改称された。尾崎の名の由来は、山の尾(小立野台地)先端(崎)の位置することから名付けられたという。














1640(寛永17)年に4代藩主前田光高が幕府に願いでたところ、2代将軍徳川秀忠の外孫であるという血縁を理由に、幕府は東照宮勧請の認可をした。金澤東照宮の別当寺である常照院は、同年寛永寺(日光東照宮創建に尽くした天海の創設)内に置いた支院で150石の寺領を寄進して創設された。寛永18年から幕府の木原杢じょうが設計を行い、加賀の大工清水助九郎らが施工にあたり完成し、1643(寛永20)年にご神体を東叡山から迎え社殿を竣工した。前田家の勧請は全国の外様大名に影響を与え、以降約600の東照宮が全国に誕生したといわれる。

廃藩以降は金沢城内が陸軍省管轄となっため、明治11年に御算用場跡地の現在地に移転した。現在祭神は天照大神・源朝臣家康、菅原朝臣利常の三体となっている。

藩政期には城内の「北の丸」にあり、甚右衛門坂から上がって、坂の上を左に曲がって、二の丸に入る「土橋門」の前を通り、「新丸」に下りるまでの道の左側の敷地にあった。金沢城内の「御宮」といわれた。





「よみがえる金沢城」より








現在、ここは城内関係者の駐車場になっている。












下図は「加賀国金沢之絵図」の「御宮」部分で、寛文8年~延宝7年のものである。藩主が参詣に来たときは、三人の藩士がお供し、「総門」で馬を降り中に入ったという。また、城下の町民たちは東照宮を参詣することは可能であったが、城内ということで庶民の参詣時間が制限され、特別な祭礼もなかったという。(赤線がルートコース)


下図は120年後の文政3年の「御城中壱分碁絵図」で、二つの絵図から藩政期には建物の配置はあまり変わっていないことがわかる。ここは、幸運にも宝暦の大火(1759年)や文化の大火(1808年)でも消失しなかったことから、創建当時の建物がそのまま残っていたのであろう。
下図を見ると、甚右衛門坂の上の方で左に曲がると桝形があり、そこから「尾宮坂御門」をくぐり、そこからすぐに北側に折れると参道があり、その先の「随身門」をくぐる。その先を東に折れ、参道を歩くと鳥居があり、さらに進むと「拝殿・幣殿」にいたる。拝殿の奥に「本殿」がある。拝殿の手前は「水屋」さらに奥に「井戸」がある。また左側には「摂社」がある。「拝殿・幣殿」から左側には、「本地堂」と「宝蔵」がある。「本堂」の右側には「御供所」がある。
幕末の頃には、甚右衛門坂の上の右側には「時鐘」が描かれた絵図が残っている。江戸から来た「溶姫」が「金谷御殿」で療養しているとき、「音がやかましい」として、新丸の方へ移されたということを聞いたことがある。そしてその後「西別院」に移されたという。
























下図は、明治11年に北の丸から現在地に移転された際に作成された配置図で、「随身門」は移転されていないし、「本地堂」は「護摩堂」として「長田菅原神社」に移転している。「神餞所」、「水屋、「井戸」の位置も変わっている。現在はその「神餞所」(御供所)もない。










図は渡部知先によるが、加賀藩御大工の渡部祐六郎のこである。「拝殿正面図」と「本殿側面図」













尾崎神社が現在地に移った後に、明治から戦前までは陸軍九師団が入っていた。下図は昭和16年の旧金沢城配置図であるが、北の丸には「将校集会所」や「被服庫」が描かれている。





「よみがえる金沢城」より
















戦後は、昭和24年から「金沢大学」になったが、ここ北の丸には大学の先生の家族を伴った宿舎があったと私は思っている。というのも私は「旧NHK放送会館」近くにあった「殿町幼稚園」に通っていたが、その時にここから通っている先生の子供が一緒の園内いたことを覚えている。そして小学生の頃にここに来た時に、その建物があったのを見た記憶がある。