2022年3月26日土曜日

尾崎神社(2)境内

尾崎神社(1)藩政期の御宮の続きで、城内の北の丸から「甚右衛門坂」をおりる。この坂は、天正8年に佐久間盛政が金沢御堂を攻めた際に、本願寺方の浪士の平野甚右衛門がこの坂で奮戦し、壮絶な討ち死にをしたことからその名が付いたという。

下図の写真は2月ごろに撮ったものである。

「甚右衛門坂」の下周辺には、伴天連屋敷(宣教師屋敷)が集まっていて、丹波国守護代の内藤如安や宇喜田秀家に仕えてた宇喜田休関など、高山右近を頼って金沢に来たキリシタン武将や加賀藩士は集まっていたと案内板に描かれていた。












この惣門は、江戸時代の北の丸にあった「惣門」や「随身門」と違い、八脚門であり様式が違うので、明治時代後になってから建てられたものであろう。右側に大きな「尾崎神社」の標柱が建っている。



















この総門と朱色の「玉垣」で境内が覆われている。


















重要文化財である尾崎神社の「拝殿・幣殿と本殿」は雪から建物を守るために冬の間は朱色の囲いで覆われている。


















拝殿前の「狛犬」も頭に雪がこんもり載っている。



















拝殿前の参道の右手には「手水舎」があるが、江戸時代の絵図に描かれている「水屋」であろうか?


















そして左手の先には鳥居とその先に大手町側から入る別の出入り口がある。


















境内にある木々には花が咲いているように雪が付いていて、朱色の「玉垣」とのコントラストが見ごたえがある。


















山門横に「辰巳用水分流再興碑」が建っていた。藩政期に金沢城内から防水用として大手堀から十間町、博労町を経て西内惣構堀へ導通する分水が明治初期まで流れていた。これを記念して近所の有志が碑を建てたものである。