2020年7月4日土曜日

小立野界隈(4)石引広見 仰西寺 乗円寺 旧安藤町

小立野界隈(3)の続きで、次の小路には、やはり真宗大谷派の「等願寺」というお寺がある。



















1602(慶長7)年に津幡弘願寺の隠居・遊林院の子・等覚坊龍念が森下町で創建した。1659(万治2)年の大火で全焼し、3代利常より現在地を拝領し移転。1731(享保16)年ふたたび類焼したが、本堂内陣は火災を免れ当時の姿が残っているという。



















「北陸銀行小立野支店」の横の小路に入ると、古い建物がある。以前は商店街だったのか(?)丸い庇などが付いているが、今はパーキングになっている。1959(昭和34)年に「天徳院」の裏に「小立野小学校」が建てられたが、それ以前は、この辺りに、その前身の「石引小学校」があったらしいがその面影はない。



















「金沢大学附属病院」前の通りは非常に広いとなっている。ここは「石引広見」と呼ばれ、左右両側が車道と歩道があり、中央は一服できる広場となっている。
また、好評だった「まちのり」の自転車が去年あたりから電動になったことにより、小立野台地にも「まちのリポート」が設けられるようになった。





























この広見の大通り近くに「旧河内町」の標柱がある。「加賀藩の老臣禄高一万七千石の奥村氏の下屋敷(家中町)があったところで、同家の当主が河内守に任ぜられたことがあり、明治の初めこの名がついた」とあった。
























広見の次の小路の角に真宗大谷派の「仰西寺」という寺がある。ここは珍しく楼門の上層部に鐘を吊った鐘楼門である。門の幅が狭いのでやけに高く見える鐘楼門だ。門の扉につがいの鳩(?)があしらわれた寺紋(?)が付けられていた。
























開山は泰澄大師で、石川郡大野庄宮腰に建立し、元明寺と称した。その後熊谷入道蓮生坊が再建し、天台宗を改めて念仏宗として仰西寺と呼ばれた。1290(正応3)年に本願寺三世の覚如上人が北陸巡行の際、浄土真宗に改宗し、仰西寺と改名した。新しく立派な建物である。



















小路を挟んで、その隣には「乗円寺」というお寺がある。山門の隣には、立派な町家風の家があったが、社務所すなわち住職の家か(?)




















はじめは天台宗普照寺と称したが、住職善永は越前吉崎にあった蓮如上人を訪ね教化を受ける。1489(延徳元)年に浄土真宗に転じ乗円寺と改称した。2代永乗は越前の永正一揆、4代恵乗は大阪石山合戦に参加して戦功著しく、恩恵を受ける。



















本堂の側面の入母屋屋根の下の漆喰部分に珍しく金属の格子が張られていた。




















さらに紫錦台中学校方向に歩いていくと、石引大通りに沿って3筋の小路があるが、ここが「旧安藤町」で、加賀藩士安藤長左衛門の屋敷があったことに由来する。藩政代は鉄砲組の組地で安藤氏はその足軽頭であったという。
この安藤町や近くの二十人町といい、この辺りは鉄砲足軽の組地が集まっていたが、加賀前田藩はいかに城の防御に力を入れていたかが分かる。



















石引通のこの近くに歩道に色が屈折している箇所がある。この下に「辰巳用水」が流れているが、この場所辺りに「石引水門」があった。元々「辰巳用水」は、金沢城内に水を取り入れるということで造られたが、城の手前に堀があり、「逆サイフォン」の原理を使って城まで上げるということで、当初は今の兼六園内に「逆サイフォン」の取り入れ口としたが、城の「三の丸」までしか上がらなかった。それで取り入れ口をここの「石引門」まで上げたところ、城の藩主がいた「二の丸」まで上がるようになったということである。