2020年7月12日日曜日

一乗谷朝倉氏遺跡(1)

今回は、先日「ブラタモリ」で「一乗谷朝倉氏遺跡」について再放送で放映していのを見て行きたくなったので、仲間とともに行ってきた。(6月23日)ここは2度目だが、前回は25年くらい前で、九頭竜川上流での子供たちとキャンプに行った帰りに寄った程度で、あまり覚えていない。
ここ一乗谷は福井市から東南へ約10km離れた小さな谷あいである。足羽川へ注ぐ一乗谷川にそって小さな部落がいくつか谷間に点在する。今から約450年前まで朝倉氏の戦国城下町があったが、織田信長に攻められ一乗谷は焼き払われたが、その後間もなく廃墟跡に農民が住み着いて焼け跡を開拓し田畑とした。そして一乗谷が遺跡として価値が高まったのは1967(昭和42)年に初めて本格的な発掘調査が行われ、当主の館・武家屋敷・寺院・町屋・職人屋敷・道路に至るまで街並みがほぼ完全な姿で発掘されたという。
























朝倉氏は現在の兵庫県養父市八鹿町の豪族で、南北朝時代に朝倉広景が主家の斯波高経に従って越前に入国した。朝倉高景の代に1467年の応仁の乱での活躍をきっかけに一乗谷に本拠地を移し、斯波氏、甲斐氏を追放して越前を平定した。以後5代103年間にわたって越前の中心として繁栄し、この間に京や奈良の貴族・僧侶などの文化人が下向し、北陸の小京都とも呼ばれたという。義景は、足利義昭を南陽寺に迎え観桜の宴を催した。しかし刀根坂の戦いで織田信長に敗れ、朝倉氏はついに滅び、戦国城下町も戦火によって焦土化したという。
5代朝倉義景画像
























ここに塀に囲まれた重臣の屋敷が山際に並び、計画的に造られた道路を挟んで武家屋敷や庶民の町家が形成されリアルに再現されている。発掘された塀の石垣や建物の礎石をそのまま使い柱や壁、建具なども出土した遺物に基づいて忠実に再現されている。
その「復元街並み」を見るために入ったが、70歳以上は無料となっていてラッキーだ。



















向こうにある四角の石が置かれているのが「井戸」の跡で、ここの遺跡跡には多くの井戸があったことが分かる。それで水には事欠かなかったことが分かる。また、周りに石が積まれている小さな穴は「ブラタモリ」で便所だろうといっていた。ここに板がはめ込まれていて「きん隠し」があったことも面白く説明していた。



















四角の枠の上には小屋根が付いていて、そこに「つるべ」があったのだろう。
























城下町の武家屋敷の土塀が整然と並んでいる。



















屋根は長町と同じく板葺屋根であるが、下の方の石は大きな石もあり、長町のような表面が平らにされてなく自然のままの石が飛び出ている。



















武士の屋敷と商人の家の中が見られ、柱や梁、木の扉や土壁、明り取りの窓などを見ることができた。柱や梁は高級なヒノキやケヤキ材である。そのころはふんだんにあったと思われる。



















壁は中の藁が見え、小さな窓は中の竹が出ている「下地窓」になっている。



















染物屋さんの家で瓶などが置かれていた。



















ここでデジタルカメラが間違ったところを触ってしまったせいかシャッターが下りなくなってしまい、この後は写せなくなってしまったのは残念でした。(スマホで写せるのを忘れていた)あとはパンフレットや資料で紹介する。