交差点の向かい側には「下馬地蔵尊」がある。1591(文禄元)年頃、金沢城建設のためにはじまる戸室山からの石曳きの安全を祈願して住民により建立されたと伝えられている。1623(元和9)年に天徳院建立以降、地蔵堂の所を「下馬」と称し、馬での参拝者はここで降りなければならなかった。それで藩老藩士のための下馬腰掛所があったという。この地蔵尊の周りが広いので、我々のメンバーでのこの辺りの町巡りをする場合の集合場所としてよく使う。
正面中央に地蔵立像を半肉彫りとなっている。上の方には龍が彫られている。
石引1丁目交差点から、兼六園方向に1本入った小路に「千取寿司」という以前から高級寿司で有名な寿司屋がある。私はまだ入ったことないが、水、魚、米など金沢の自然の恩恵を生かして美味しさを守り続けているという店である。
この小路をさらに奥に進むと真宗大谷派の「善徳寺」というお寺がある。山門は黒の瓦屋根、鐘楼は緑青の銅板屋根そして本堂は赤茶色の瓦屋根である。
山門には「善徳寺」と描かれた立派な額が掲げられ、扉には金色の「梅鉢紋」が光っている。
1650(慶安3)年、越中の城端善徳寺の6代顕勝が金沢材木町に掛所を建立したのが始まりで、1658(万治元)年に3代利常より現在地を賜わり移転した。1879(明治12)年に善徳寺支院と改称し、1994(平成6)年に本院から独立して真宗大谷派善徳寺となったという。
本堂はたいへん大きくて赤茶色の屋根が美しい。
本堂の前にこの地区の子供会の太鼓行列用の台(?)が置かれていた。
面白い龍の口から水が出てくる手水鉢と丸い大きな笠を持った雪見灯篭、それに白い花が咲いていた。
境内脇には以前使われていた立派な鬼瓦とその由来が描かれていた。
この辺りは、藩政期には「土取場」と言われた。高山右近が城を改造した時に、小立野の土を盛って土塁にしたというのが定説になっているが、他に犀川の川除普請のとき洪水を防ぐために小立野の山土を運んで盛り上げたという説もあるという。
すぐ近くの金大附属病院の敷地前に「旧土取場」の標柱があった。「藩政前期から、このあたりの土を取って瓦を焼いたところからこの名がついたといわれ、また、土居や堤防を築くときにも使われたといわれる。かつては土取場を冠する町が三町あった」とあった。