小立野界隈(4)の続きで、「乗円寺」の右を曲がると「旧百々女木町」の標柱がある。「藩政時代、木曽谷に注ぎ込む川の流れが急で、高い音をたてていたところから、ここに架けられた橋をどどめき橋と呼び、この名が町名になったという」とあった。しかし今は、勘太郎川の水が少なく、以前のような音はしない。
ここから左に折れると坂がある。この坂は八坂五山と言われるお寺付近まで続いているなだらかで長い坂である。この坂を「木曽坂」と呼んでいる。左手側は「紫錦台中学校」などがある高台であり、右手側は「宝円寺」などがある高台の間の谷をぬうようにある坂である。
左手のブロック塀には、崖上の水が大量にたまった場合に崖面を流れないように土ののパイプを通して、下に水を落とすものと思われるが、パイプだけのものと出口が下図のようなものとがあったが、どういう風に水を落とすのだろうか?
少し先を歩くと右手に坂に沿って「勘太郎川」の流れが見える。この辺りは用水の幅も広い。
その上部は深い森になっていて、さながら深山幽谷という雰囲気は今でも残っているので、藩政期はまさに信濃の木曽路に似ていたことだろう。
こちらの急な階段を上ると「紫錦台中学校」の方に出る。
さらに進むと「木曽坂」とは別の方向にさらに別の坂があり、小路がつながっている。ここに「木曽橋」があり、「勘太郎川」に架かる橋である。下の方の小路にも民家も何軒かある。
左手には、坂を上がる道があり、そこに「木曽坂」の標柱が立っている。「木曽の山中のような幽すいな所なのでこの名がついた。その一部は宝円寺の裏門の坂なので裏門坂ともいわれていた」とあった。
この前に薪が置かれた「炭焼き小屋」(?)と思われる建物があった。
この小路を進んでいくと急に開け、眺望がよく向こう側には卯辰山が見える所に出て、そこから階段で降りれるようになっている。この階段の横が加賀八家の一つの「奥村家」の菩提寺「永福寺」である。
この坂の上の付近に壊れた建物がそのままの状態になっている。街中でこういうものをもることも珍しい。