2019年4月12日金曜日

卯辰山寺院群 (1)永久寺

金沢の町は、藩政期の初めに城を守るために、城の三方向にお寺を集めた。というのも、そのころお寺は民家に比べて、広く荘厳に造られていたので、いざ戦の際には武士たちがそこに集まり、砦、陣地として使うための絶好の場所だった。ただ、金沢の町は前田家が支配する前は、一向宗のお寺が多くあり、それらを農民たちが守っていた。前田家が支配するようになってから町づくりが始まったが、一向一揆衆たちの謀反を恐れて、「浄土真宗」のお寺はそのまま残し、「日蓮宗」や「禅宗」などのお寺を多く集められた。寺町寺院群は犀川の向こうの南方向に、南東方向の小立野台地に小立野寺院群、そして浅野川の向こうの東北方向に卯辰山寺院群がある。
下図の薄ピンク色部分が武士の屋敷地、黄色が商人地で黄緑色部分が寺院群



















卯辰山寺院群は、卯辰山を巻くようにがけ下に曲線的に寺院がある。他の寺院群に比べて、入り組んだ細い道で、坂や階段が多いところである。



















今回は卯辰山寺院群へ巡るということで、浅野川大橋を渡り鳴和方向に行き、「東山」交差点のつぎの「東山2」信号の所から右へ廻って卯辰山寺院群に入った。ここからお寺の土塀が多くなり、奥へ行くほど坂の傾斜がきつくなる。



















 まずは、「金沢西国三十三観音の第二十二番」の「永久寺」に行った。山門に「金沢三十三観音」の旗が立っており、前田利家の命により「金澤寺」として1593(文禄2)年に現在の「金城麗澤」付近の地に創建された。以来歴代藩主の祈祷所となった。1617(寛永4)年に3代利常お命により現在の地に移った。利常が「永久寺」にすべしと命ぜられたという。玉泉院丸の幼名「永姫」に由来か?






































小さな本堂に入りお参りしようとすると、賽銭箱の上に、ここの本尊「千手観世音菩薩」の写真が載っていた。この像は「玉泉院」から祈願成就のお礼として寄進されたという。脇の毘沙門天・不動明王も玉泉院が寄進したという。






































境内には、「安産」・「子育」・「息災」・「延命」などのご利益があるという地蔵菩薩堂があった。
























他に三十三観音菩薩像がずらりと並んでいた。