ここの鬼子母神は、加賀藩主三代目前田利常公が篤く信仰された。元小松城主丹羽長重が城内天守に安置し信仰されたものである。利常公は伯父である日条上人(滝谷妙成寺の十五世)に深く帰依せられこの鬼子母神様を上人に託された事から当山の建立となった尚、現在の鬼子母神堂は明治三十八年に再建、本堂は昭和7年に改築された。昭和五十九年には重要民俗文化財の再建、茶室(榴庵)が建設された。
この寺は、泉鏡花が幼いころ、よく母親に連れられてきたという寺である。彼の作品「鶯花径」に「始終遊ぶのに来ていた処で、また皆が鬼子母神様のお乳だっていって、門の柱がくしの鉄の釘のふりつくした円いもののついた頭を戯れにすいすいした」と描かれている。
山門を入るとすぐ右に初代「中村歌右衛門」の墓がある。「中村歌右衛門」は宮腰出身の歌舞伎役者で京阪を代表する悪役の名優であった。幼少より気ままな生活を送り、読書を好まず家業を捨てて藩士の家僕となり、放浪したという。他に京都の名工で、加賀蒔絵の祖である五十嵐道甫の顕彰碑もある。
その前にある小屋の屋根の下に、ここの井戸の中10m深く水中に生息していたという松の根で「松竜」と名付けられている。確かに「龍」に似ているが、この寺と共に歩んで300年以上経った松の根だという。
人形供養像(まりをつく子)
本堂の屋根の最上部に「柘榴」の印がつけられていた。「柘榴」は豊穣をあらわし「鬼子母神」につきものだとか。
本堂玄関の上に13代藩主前田斉泰の揮毫による「鬼子母尊神」の扁額が掲げられている。
本堂の正面の内陣には、「鬼子母神」が祀られている。
子供たちが病気や事故、災害に遭わないよう、また家族の家内安全・身体健全を願って、多くの千羽鶴などがぶら下がっていて祈願が行われている。
右側の部屋には「涅槃会図」が置かれていたが、横たえているお釈迦さんの上方には海やその向うの陸が見える「涅槃会図」である。部屋の左にあるのは「花嫁のれん」か(?)
さらに右側の部屋には極彩美の欄間の中央に「南無妙法蓮華経」の額が掛かっていたので、本尊は「日蓮聖人」であろう。(?)