里見町、水溜町界隈(1)の続きで、その後、竪町商店街から中央通りを渡って「中田天狗本店」の横の細い通りに入り「水溜町」のほうに行った。ここにも武家屋敷の土塀がいくつか残っていた。
ここの通りにある「河村家住宅」は、「こまちなみ保存区域」にあって街並みを象徴する貴重な歴史建築であるという。
曲がり角には、武家屋敷の塀が見事に張り巡らされていた。その中の庭に樹高23m、幹周1.8mという2本のモミの木があり、武家地としての歴史的風情が残るひっそりとした街並みの中で、ひときわ目を惹いている。
その塀の通りの向側に「水溜町」の標柱があり、その由来は「犀川の河原であったが、川跡を追い追い埋め立て、埋め残りに水溜堀があったのでこの名が付いた。元禄年間に60m余のこの堀は水溜と呼ばれ、消防に役立った」と記されていた。
その後、広阪にある「城南荘」(旧横山邸)の裏にある「石川国際交流サロン」で「明治、大正、昭和のランマ展」をやっていたので見に行った。
ここには、透かし彫りを施した彫刻欄間が多く並べられていたが、加賀藩や石川県にあったものとは違い、太平洋側のものだろうということであった。日本海側のものは、積もる雪に耐えられるように太い木で作られているが、ここにあるのは薄いものだという。昔は糸鋸を手で動かしながら彫ったというから大変な作業だったろう。非常に細い部分があったが、ちょっと下手をすると折れてしまいそうだ。
下図の作品は、100年前に福井の料亭にあったものだと言っていた。花瓶とカニが刻まれていた。
座敷の2部屋は、ビデオ撮影をやっているところで入ることはできなかったが、ここに展示されている欄間は富山の井波の木彫師が作ったものだと言っていた。井波といえば、日本でも有数の木彫師がいるところで、太平洋側のものとどう違うのか見たかったが。
次に金属に異種金属を埋め込んだ「加賀象嵌」は藩政期から「金沢の伝統工芸」の一つでよく知っているが、「木象嵌」というものを見た。一枚の木に違った種類の木を隙間なく埋め込んで、ある図柄を作るもので、ここではテーブルやイスに魚が埋め込まれていた。木の色合いの違いや木目によって、よく魚が表現されていて、面白いものを初めて見ることができた。