今回は、金沢市が主催する金沢歴史遺産探訪のひとつで、辰巳用水の随道の中が見れるということで参加した。
辰巳用水は3代藩主の前田利常が、金沢城の高台に水がなく、何度も火事にあって大きな被害にあっているので、なんとか城に水が引けないか家来に命令した。そこで家来は用水作りのうまい町人の板屋平四郎に依頼した。平四郎は調査し犀川から城まで水を引くことができると快諾した。
そして1632(寛永9)年に、1年足らずで犀川から城まで、約11kmの用水を完成させたという。
金沢市役所前の広場で集合し、バスに乗って上辰巳町に行った。
辰巳用水の随道の入口付近でここを何十年管理しているという80歳を超えた人から説明を受けた。
我々が随道には入れるように、早朝に水門を閉めてくれていたので、随道の中の水はわずかだったので長靴で難なく歩くことができた。通常は人間の腰あたりまで水があるという。ヘルメットとカッパを着て中に入るとわずかな明かりがあるだけで暗かったので懐中電灯で照らしながら歩いた。
思ったより大きな随道で、壁にはつるはしやのみで削ったと思われる痕がくっきり残っており、380年前の大変な作業であったことが偲ばれる。
ところどころに横穴があり、明り取りや土を運ぶのに使われたという。この隣通しの横穴を通して、上から掘る人と下から掘る人がいたことと、人夫には4度の食事を出し作業が昼夜休みなく続けられたことから作業がはかどったという。
また、犀川の取水口の標高と城の標高と距離の関係から用水の傾斜は非常に緩やかで、10mに対して5cmの高低差しか付いていないという。これを見盤という測量器具を使って正確に付けたという。
「こども金沢市史」より
随道を出ると雨がどしゃ降りになってきたのでバスにあわてて乗り込んだ。
バスの中から「三段石垣」が築かれているのを見た。ここは辰巳用水沿線の中でも特に地盤の弱いところで、用水の流れる斜面を侵食することから守るということであった。
次に犀川の取水口の「東岩」を見に行った。これは最近できた辰巳ダムの上の橋から見下ろすしかなかった。犀川の蛇行している箇所を利用して多くの水は取り入れらるようになっていた。
380年前はこれより下流の「雉口」が取水口だったが、幕末の頃に現在の位置に移動したという。
辰巳用水は380年前の「匠の技術」があちこちに見られる。特に兼六園と城の間には堀があるが、「逆サイフォン」という技術を利用して城まで水を揚げているなどがある。これについてはまた後日紹介したい。
いずれにしても、なかなか見れない面白いものを見ることができ、よい体験ができた。
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