2021年9月2日木曜日

放生寺

 今回は、「中橋高架橋」をくぐって左側の角にある「放生寺」に行った。




















門の右横に「放生寺」の標柱があるが、さらにその横に「旧日吉町」の標柱があった。「藩政時代に宮腰往還から広岡山王社への山王道が通称日吉町と呼ばれ、明治期に町名となったが、鉄道高架事業で高架下に消えた」とあった。
























門の左横には「放生寺の由来」が刻まれた石碑が建っていた。
元亨3年(1323)に瑩山禅師によって、現在の野々市市太平寺にあった大乗寺の塔中寺院として開かれました。その後、旧加賀藩の重臣であった、津田遠江守重久が現在の地に元和元年(1615)に建立されました。当時津田家は大聖寺にある全昌寺を菩提寺としていたのですが、大聖寺城が廃城となった際に、信仰上最も信頼していた除盛和尚を招いて開かれたのが、この放生寺である。(HPより)



















「放生」とは「とき放って生かす」ということで、天武天皇のころ(676年)に詔を発布して「放生会」が始められたという。中国やインドでも古くからおこなわれている行事だという。
捕まえられた鳥魚を山野に開放してその命を全うさせ、あわせて、その功徳によって自らの信心を増長し修行や生活が圓満に行われることを警願する心の基づく行事である。
本堂は最近立て替えられたと思われるが、立派な唐破風の屋根を持つ大きな建物である。



















ちょうどお盆の時期だったので、檀家さんたちがお参りに来られていたので、中に入ることはできなかった。
























本堂内にある津田家歴代の位牌堂






「パンフレット」より











瑩山紹瑾明峰素哲・祖渓の絹本着色像図










「パンフレット」より













津田家およびその家臣の供養塔の横には「大乗寺旧跡」の石碑が建っていたが、「放生寺」は、かって大乗寺の末寺であったのは木の新保のこの辺りであったことから
























門のすぐ中には、「地蔵菩薩」が安置されている。この6世林室卓藝師によって掘られたもので、信仰する人が絶えないが、特に加賀八家前田土佐守の娘が病にかかった時に、娘の身代わりになって守ってくれたことに歓喜し涙が止まらなかったという。「地蔵菩薩」は以後「身替り地蔵」と呼ばれ、多くの人々を困難から救ったという。



















本堂の横には、なだ新しく造園された庭があった。