昌永町・京町界隈(1)の続きで、その後「彦三大橋」から浅野川沿いの右側の道を歩いた。すぐに「中島用水」の標柱があった。「元禄11年 藩命により完成されたといわれる用水で かっては旧中島町の浅野川岸から取水していたのでこの名が付いた」とあった。
取り入れから少し先だけ開渠となっているが、「広誓寺」前付近はずっと暗渠となっている。
ある家の裏庭には草木がいっぱいで、さらに大小の灯篭や石などが所狭しと置かれていたは、造園業の庭であろう。
幕末の頃には、「中の橋」と同じように「一文橋」の木橋があったらしい。その木橋は何度も流失している。
大正時代に「昌永橋」が開通したときの祝いで多くの人が集まった写真
東大通に戻ると、通りに面して町屋風の建物に大きな薬局があった。店前にいろいろな商品のポスターが貼られていて、私もちょっと使いたいと思うようなものがあったので、店の店員に値段を聞いたら、あまりにも高いのでやめた。
また、ここからは「中島用水」が開渠になっていて、北陸鉄道を超えて「城北水質管理センター」を巡るようにして流れ、あとは農業用水となって、磯部、松寺町地内を流れて「大宮川」に合流している。高架橋の手前を左に曲がると「応化橋」に出る。右に曲がると「乙丸陸橋」の方面になる。
また「中島大橋」に戻ると、下流側に「応化橋」と北陸新幹線の高架橋が重なって見える。