2021年6月14日月曜日

昌永町・京町界隈(1)

 今回は、駅前から東大通を通って、浅野川の外側にある昌永町・京町界隈を歩いた。

浅野川の所には「中島橋」を渡ったが、この橋は、以前は鉄骨のトラス構造だったが、60年経ち老朽化し、最近新しく建て替えられた。

橋の向こうは鳴和方面に通っているが、私が小学生の頃はまだ行き止まりになっていたのを覚えている。




















中島大橋から上流側を見ると「昌永橋」が架かり、その先の山「卯辰山」が見える。



















橋の一端には「辰巳用水」が浅野川に流れ込んでいるところがある。藩政期は「西内惣構堀から稲荷川」、今は「高岡町排水」として流れている。橋の横に通っている金属管は何を流しているのだろうか?




































橋を渡って右側は「昌永町」となっているが、旧町名は「上・下中島町」であった。この辺りに藩政期に建てられた武士系の建物「泉家」が数年前まで残っていたが、今はない。また道路の下は暗渠となって「中島用水」が流れている。




















「泉家」は人持組寺西要人の陪臣の家だったところに彦三大火の後に移ってきて、藩政期の武家屋敷にごく最近までそのまま住んでいた。緩やかな勾配の屋根でアズマダチであった。今は解体した材料を金沢市が保管しているが、いずれ湯涌の「湯涌江戸村」に建てる予定と聞いたことがある。




「金沢市史 建築編」より







その先には、私と同じ会社でテニス仲間だった人が住んでいる「信開ダイナシスティ」のマンションがある。ここは以前「宮前織機」という会社があったところで、藩政期には人持組寺西要人の下屋敷があったところである。




















その向かいには、人持組不破彦三の菩提寺「広誓寺」があるが、ここは後日にあらためて紹介する。
藩政期には「広誓寺」の向かいには「寺西要人の下屋敷」とその隣には「不破彦三の下屋敷」があり、足軽屋敷や町人屋敷などが混在していた所である。
























この辺りにあの「山田らの集団」の建物があるらしく、「オウム」に関する看板や旗がいくつも置かれていた。天理教など他の宗教関係の事務所もある。
















さらに進むと、細く曲がりくねった道で先が見えないが、昔は農道だったところだろうか?
























さらに進むと大通りに出て左に曲がると「彦三大橋」に出る。橋から見る下流側は蛇行していて12年前に氾濫し、右の昌永町側が床上浸水の大被害を受けた。そこで大々的に護岸工事をした所だ。



















上流側は向こうに「小橋」が見えるが、こちらにはせき止めの堰堤があり、藩政期に作られた「小橋用水」の取り入れ口がある。そしてこちらも護岸工事を行っている。