2021年2月11日木曜日

金石界隈(4)金石こまちなみ通り

 金石界隈(3)本龍寺②の続きで、本龍寺の横に「下本町」の標柱がある。「旧」の文字が石粉で埋められ消えている。これが旧町名復活した印である。その横に「銭谷五兵衛旧宅跡」の標柱が建っている。

























現在、金石地区の30旧町会の町名復活が順次進められていて、2018(平成30)年に一番最初に復活したのが、「金石通町」、「金石下本町」、「金石味噌屋町」である。




「旧町名復活」より














下図は「元禄年中宮腰絵図」(中山家蔵)で、約330年前の元禄年間に一軒一軒の家の名前が載っている絵図で、いかに宮腰が藩政期から発展していたことがわかる。



















この辺りは金沢市の「こまちなみ保存区域」に指定されている。中世より海上交通の要衝として、また江戸時代は加賀藩の交易の中心となった港町である。そして北前船の往来により物資の集散地として活況を呈したところである。そのころからここは、商店街が建ち並んでいたところで、下見板張りの町屋なども残っている。


































昭和初期の頃(?)のこの通りの様子で、まだ実際にいろいろな商売をやっているところが多かった。私も小学生の低学年の頃に親に連れられて、海水浴の帰りに寄ったのを覚えている。



















このこまちなみ通りに「観田家住宅」があるが、当初は加賀笠を商う廻船問屋で、旧宮腰の町年寄も努めた湊屋佐太郎の屋敷であったと伝えられている。その後、所有者が変わり、昭和26年に観田家の所有となり現在に至っている。建築年代は明治初期と推定されているという。また、珍しい玄関先の塀は北前船の虫食いの舟板の部材で作られ。北前船で富を築いた商家らしい佇まいで作られ、港町金石を代表的な建築である。



















舟板塀は何枚もの板につなぎ駒が打ち付けられ補強されている。また上部の銅板の青みがかった文様など、素晴らしい工芸技術で作られている。
























表門と前庭があり、主屋も非常に大きく、木造2階建てで切妻造り桟瓦葺妻入りの建物で、外壁は1階が縦板、2階が下見板で覆われている。
現在も住んでいるので中を見ることができなかったが、素晴らしい部屋が多くあり、座敷や仏間などの壁は朱色で、各部屋の引手金具や障子、欄間などに数寄屋風意匠が見られるという。金沢市内に残る数寄屋造りの町家の中でも特に優れた建物のひとつであるという。








































「旧本町」の標注の横に「中山主計邸跡」の案内板があった。
中山家は宮腰の町年寄りを代々世襲したところであるが、初代中山主計は前田利家が初めて天正8年に能登をうけ賜わって、越前から入部したときに宮腰の主計家に宿泊し、それ以来上方への上下にいつも寄宿していたという。その後天正11年の利家が石川・河北郡を得ると、まず宮腰の主計宅に入り、一向一揆の首謀のひとりの石崎八太夫の首を取り、金沢へ入城したという。越前から入ってきて、まだ尖兵だった利家にとって、能登七尾と越前の中継点としての宮腰に一拠点を持つことは必須条件だったと思われるという。



















「中山家関係資料」が宮腰の町年寄役・中山主計家に伝来したもので、加賀藩との交流や町年寄としての町方経営・港湾経営などの公的なものから中山家の由緒や家系、交誼や嗜好などの私的な内容のものまで幅広く残っている。




「パンフレット」より