金石界隈(5)金石こまちなみ通りの続きで、その後「金沢港」から海側のほうに歩いた。
犀川の河口付近に「波除地蔵尊」が祀られていた。この地蔵尊は長州下関の「石工万石屋定五郎」の作である。藩政期にある漁師が大しけにあった際に、手招きするお地蔵さんに助かったという伝説が残っているという。海上安全と大漁を願う地元漁師たちの拠り所であるという。昭和41年に百年祭が行われた。
さらに海側に歩いていくと、砂浜に出る境界に、海岸線沿いにずっと2重の高い鉄製の柵が付けられていた。一部のみ砂浜に出れる所があり、そこから日本海を眺めた。そしてこの辺りに「日和山灯台」があり、「金石海水浴場」があった。私も小学生の低学年の頃に親に連れられてきたのをかすかに覚えている。
「昭和初期の金石町の地図」より
また今は「高校相撲金沢大会」が卯辰山相撲場で毎年行われていて、数年前に「100回記念大会」があったのを記憶しているが、昭和26年まではここの金石の砂浜で行われていたという。今はその面影が全くない。
砂浜の近くに大野湊神社夏季大祭社殿地があるが、佐那武大神(大野湊神社の祭神)が海から来られたという伝承にちなんで、海の近くのここに仮社殿を作り、毎年夏まつりに神輿が最後にこの鳥居をくぐって浜にお戻りになる行事がある。そしてここで様々な祭典を行い氏子崇敬の参詣を頂くという。
秋葉神社は文永年間(1264~1274)諸国に火災が頻繁に起こり、鎌倉幕府は畠山某、富樫某を使者として遠江の秋葉の神に鎮火を祈願した。下社の説、ご神体を頂き大野郷の宮腰の地に一社を建立して鎮火社と称した。前田家も祈願を命ぜられ、栄敬も厚かったという。
ここの境内にある灯篭や狛犬は銭谷五兵衛の長男嘉太郎と船頭が、天保15年に奉納した。石材は北前船により瀬戸内地方から搬入されたものだという。
この神社の脇に「旧横町」の標柱があった。
その斜め向かいにある「金毘羅神社」の拝殿前に立つ一対の灯篭も同じ銭谷五兵衛の長男嘉太郎と船頭が、天保15年に奉納した。石材は北前船により瀬戸内地方から搬入されたものだという。そういえば10年以上前に香川県琴平町にある「金毘羅さん」の長い長い階段を登ったのを思い出した。
その後、裏道を歩くと「金石新町」の標柱が建っていたが、宮腰の町が形成されて以来、本町を中心に街並みが整ったが、初期からすると新しく作られた街だからその名がついた。
その「金石新町」にある「妙覚寺」がある。開基は玄信と称し、石山合戦に出陣した後、七塚町遠塚に一寺を建立した。その後、1618(元和4)年に聖徳太子の絵像と「妙覚寺」の寺号を賜わった。宮腰には1742(寛保2)年に移転したが、天明年間の火災以来2回建立し、現在の本堂は1878(明治11)年の造営された。
山門横の経蔵には10代住職賢護の手になる一切経の教本が保存されている。寺宝として蓮如上人筆の六字の名号や親鸞聖人の御真筆がある。親鸞聖人の孫の如信上人の作と伝えられる張り子の親鸞聖人座像も保存されている。
本堂前に建つ墓石は10代住職賢護のもので、仏教学ならびに真宗学を深く研鑽された人である。
蓮如上人と教如上人の「分骨奉安」と刻まれた大きな石造物があった。