金石界隈(2)本龍寺①の続きで、本龍寺の境内について紹介する。
まずは金石の二人の偉人の墓所がある。一つは「海の百万石」といわれた「銭屋五兵衛」の墓で、五兵衛は宮腰に生まれ、家業の両替商を営んでいたが、39歳の時に古船を買い、その船を修理して米を運んだのが廻船業のはじまりである。その後、全国の34か所の支店や出張所を持つ有数の豪商になった。しかし河北潟の埋め立て事業を起こしているときに、毒を投入した疑いをかけられ、獄中で80歳の生涯を終えた。
蟇股には、四神相応の青龍、玄武、白虎、朱雀の彫刻が施され、隅木下には龍頭彫刻、妻飾りには波をかたどった彫刻を用いるなど、井波大工の手による本堂の劣らず、精微な彫刻が各所に施されている。
本堂前の左側に「芭蕉句碑」があり、「小鯛さす柳凉しや海士(あま)がつま」と刻まれている。芭蕉が金沢に10日間滞在した時に宮腰に立ち寄った時に詠ったものだという。
「相撲力士龍田川の碑」があるが、この相撲力士は江戸中期に、江戸や大阪で興行相撲があり、その地方興行で相撲熱が拡がり、龍田川安兵衛は隣の石碑茂山弥吉とともに安永・天明期(1781~88)に活躍した地元力士と考えられるという。
大正時代の「本龍寺」での金石町長の葬儀の様子