2021年2月7日日曜日

金石界隈(3)本龍寺②

 金石界隈(2)本龍寺①の続きで、本龍寺の境内について紹介する。

まずは金石の二人の偉人の墓所がある。一つは「海の百万石」といわれた「銭屋五兵衛」の墓で、五兵衛は宮腰に生まれ、家業の両替商を営んでいたが、39歳の時に古船を買い、その船を修理して米を運んだのが廻船業のはじまりである。その後、全国の34か所の支店や出張所を持つ有数の豪商になった。しかし河北潟の埋め立て事業を起こしているときに、毒を投入した疑いをかけられ、獄中で80歳の生涯を終えた。





























もう一人は「安宅弥吉」の墓で、この人は金石で生まれ、「銭屋五兵衛」の物語を読んで、自分も将来銭五のように大商人になりたいと思った。31歳の時に大阪で安宅商会という貿易商を作り、砂糖の輸入からはじめて、のちに十大商社の一つといわれる大きな会社となった。弥吉は金石の子供たちの奨学金を出したり、鈴木大拙に研究するための資金を援助したりした。

































鐘楼は江戸時代末期に活躍した大野湊の代表的な船主のひとりである川端嘉左ヱ門の寄付により建立されたものである。
蟇股には、四神相応の青龍、玄武、白虎、朱雀の彫刻が施され、隅木下には龍頭彫刻、妻飾りには波をかたどった彫刻を用いるなど、井波大工の手による本堂の劣らず、精微な彫刻が各所に施されている。
























本堂前の左側に「芭蕉句碑」があり、「小鯛さす柳凉しや海士(あま)がつま」と刻まれている。芭蕉が金沢に10日間滞在した時に宮腰に立ち寄った時に詠ったものだという。
























「相撲力士龍田川の碑」があるが、この相撲力士は江戸中期に、江戸や大阪で興行相撲があり、その地方興行で相撲熱が拡がり、龍田川安兵衛は隣の石碑茂山弥吉とともに安永・天明期(1781~88)に活躍した地元力士と考えられるという。

本堂前の右側には、月明(蔵)の「この道のひとすじを行く露しぐれ」の句碑が刻まれている。この人は金石町の俳誌「俳道」ので主宰ある。



















石に標柱で柵がされた円形の中に立派な松があった。
























土台が石で上部が銅製の大きな灯篭が置かれていた。
























大正時代の「本龍寺」での金石町長の葬儀の様子






「むかしの金沢」より