金石界隈(7)専長寺の続きで、その後、海沿いの道を少し行って、右側下曲がり小路を歩くと「西ノ宮神社」がある。歴史的には詳しく明記されたものはないが、727(神亀4)念創始といわれる大野湊神社の場外末社のひとつで、100年以上前より、漁師の町の身近な祠として古くから地域住民に親しまれている。
「西ノ宮神社」から小路を少し歩くと浄土宗「海禅寺」がある。ここは数度の災害に遇い開山の年代は不明である。元来男僧寺院であったが、1911(明治44)年住誉法上人老和尚が僊化した後、女性が住職を務めるようになり、1922(大正11)年に現在の堂宇が再建されたという。
ここには、藩政期に宮腰で盛んであった人形浄瑠璃、竹本派の義太夫節の語り手太夫の墓や句碑などがある。この寺の裏の下に舞台の部材が保管されていたという。
このブログで紹介した犀川河口付近の「波除地蔵尊」がある付近は「金石海禅寺町」の名前があるが、以前にその辺りに「海禅寺」があったことからその名前がついている。
金石の町ではいかに大きな存在の人物であったことが分かる。
銅像は航海服に身を包んで、懐にはそろばんを入れ、後ろ手には望遠鏡を持っている。昭和8年に津賀田勇馬が制作した。そして黒本稼堂がモデルとなっているという。黒本稼堂は五兵衛の一族として金石で生まれた漢学者で、五兵衛に一番似ていることからモデルとなったという。
前面の銅板の「銭谷五兵衛翁銅像」の文字は16代当主前田利為によって描かれたという。
また右横の碑文は尾山神社の宮司で銭五研究の第一人者・鏑木勢岐氏の作だという。
また公園内には、ここが以前松林であったが、2万本のクロマツを植林して砂防林を造成した金石の「唐三郎」氏の石碑が建っている。
「金石銭五公園」の向かいの大きな敷地に「金石小学校」のグランドと建物が見えた。
ここにあの「粟崎遊園」に対抗した金石電鉄の「涛々園」があったところだ。1926(大正15)年に開業し、1931年まで閉園されていたが、戦後も再開されて1951年までやっていたという。大浴場や水族館、ミニ動物園、演技場などがあった。「粟崎遊園」に関しての資料などは「内灘歴史館」で見たが、「涛々園」に関してはほとんど見かけない。
「昔の金沢」より
「昭和初期の金石涛々園付近の絵図」より