高岡市巡り(2)勝興寺②の続きで、その後にすぐ近くの「伏木北前船資料館」に行った。ここは、高岡市指定文化財で旧秋元家住宅で、文化年間(1804~1818)以前より現在地で海運を家業とした旧家である。屋号は本江屋で、当初は船頭や水主(かこ)などの宿泊施設(小宿)だったが、時代が下るにつれて長生丸や幸徳丸といった船を持つ廻船問屋として繁栄したという。
主屋は、1887(明治20)年の大火で焼失し、その後、元通りに建て直されたといわれている。建物は、切り妻造り、一部2階建て、梁や束、黒壁の構成が美しいアズマダチとなっている。
内部の展示品には、伏木の廻船問屋と交易、伏木港の変遷など北前船の通商で栄えた伏木周辺の歴史を紹介している。また、北前船の航海用具や船主の生活用具、全国各地の引き札などを展示している。
内部は、オモテザシキやオクザシキ、チャシツなど数寄屋風の繊細なつくりとなっている。
船箪笥は、船中で船頭や知工(ちく 事務局)が大切な書類やお金、衣類を入れたもので、懸硯と帳箱は金庫として、下の写真も半櫃(はんがい)は衣装櫃として使っていた。
小説家「堀田善衛」の記した文の額が飾られていたが、「堀田善衛」はこの伏木の廻船問屋で育った人で、金沢2中、慶応大学で学んだ国際派の小説家である。芥川賞をとり、文明や国家について鋭く論じた有名な小説家・評論家である。金沢の2中時代に香林坊のスポーツ店で働きながら英語の勉強をしていたという。
結婚などに使う熨斗紙に北海道で採れたコンブで包まれている。
土蔵は2階建てで、調度蔵と衣装蔵の屋根の上には、港の出入りを見張るための望楼が設けられていた。
秋元家に伝わる古文書には、1857(安政4)年に加賀藩の重臣一行が海岸視察に訪れに、ここで休息をとり、蔵前の2階に上がり、望遠鏡で港を眺めたということが記されているという。現在市内に望楼が残っているのはここだけだという。
望楼に上がるための階段は、非常に急でしかも狭く手すりに摑まりながら、やっとの思いで上がった。
上に上がると2畳くらいの狭いところだったが、眺望が開け、海が近くに見え藩政時代の雰囲気を味わった。
土蔵の下には、北前船時代に使った高岡鉄製の大きな鍋が置かれていた。この鍋を北海道にもっていき、北海道の人たちは、これでニシンを煮て肥料にした。この肥料を北陸や山陰、山陽、関西へ北前船で運び、この肥料で米や野菜を作ったという。
中央の庭から見た主屋。