今回は、金沢市と縁が深い富山県の高岡市へ。ここは何度か来ているが、一緒に行った仲間と話し、前田家11代藩主が幼少の頃にいた「勝興寺」と高峰譲吉が米国で交流の場として使用した「松楓殿」の再現を中心に見ることにした。
まず「勝興寺」に行った。ここは、1998(平成10)年から続く平成の大修理を経て、今年修理完了だという。
「勝興寺」前に着くと、正面に「総門」が見えた。ここの建設は1840(天保11)年といわれていたが、1864(文久2)年と判明したという。高さは8.7mで、本柱と控え柱を結ぶ小さい屋根がある「高麗門」になっており、屋根は瓦葺きで、先端に「梅鉢紋」が付いている。また両側にめずらしく鯱が付いているという城郭のような門である。
「総門」をくぐるり、立派な欄干のついた石橋を渡ると、きらびやかな「唐門」(重要文化財)がある。この建物は、元は京都の興正寺で1769(明和6)年に造られたもので、1893(明治26)年に敷石ごと移されたという。当時の交通事情から鑑みて、何隻かに分けて北前船で運ばれたといわれている。
「雲竜山」勝興寺の扁額「唐門」の隣に城郭を思わせる望楼形の「鼓堂」が見える。昔は中に太鼓があり、僧侶に時を知らせるために使われていたという。
「唐門」をくぐると正面に「本殿」の建物がある。ここで、「勝興寺」の歴史について紹介する。本願寺8世蓮如上人が、1471(文明3)年に越中の布教の拠点として、加賀との国境近くの土山坊に開いたのが起源である。戦国期には同宗派の僧侶・門徒に大きな影響力をもちながら、越中一向一揆の拠点として戦国武将と関わってきた。古国府城のあった現在の地に1584(天正12)年に移転後、越中に進出してきた豊臣秀吉から寺内の安全と保護を約束され、その後越中国の支配者となった前田家とも密接な関わりを持ちながら、広大な伽藍と寺内町を形成した。越中における浄土真宗の触頭として、近代に至るまで繁栄している。現在、約30,000平方メートルの広大な境内には、本堂をはじめとして12棟の建造物が重要文化財に指定されている。
本堂は勝興寺住職より還俗して、加賀藩主11代を継いだ前田治脩の支援を受け、西本願寺の阿弥陀堂を模して1795(寛政7)年に建立された。
境内に「天から降ってきた石」が置かれていたが、「隕石」だろうか?先日、千葉県習志野市のマンションに落ちたのは小さなかけらだったが、あちこちで空の閃光を見たという人がいた。この大きさの隕石が落ちたのであれば、相当大きな衝撃があったのではと思う。門信徒が言い伝えきたという七不思議のひとつ