はじめは「長田神社」または「長田天神」といっていたが、明治6年に社号を「長田菅原神社」と改め、旧社格は村社に列せられたという。
奥に入るともう一つ鳥居がある。この前に「長田天神宮」の標柱が建っている。
参道横の「手水舎」の前に、この建物が金沢市の指定文化財である立て看板があった。
江戸の初期の1643(寛永20)年に4代藩主前田光高公が金沢城内の甚右衛門坂の上の北の丸に徳川家康公を祀る東照宮を建立し、これを「金沢権現堂」といっていた。時代が変わって1873(明治6)年神仏混交廃止により、仏像仏具が取り除かれ「尾崎神社」と改称された。しかし明治9年に金沢城が旧陸軍の所管となり、明治11年に尾崎神社の建物のほとんどは丸の内の現在地に移転した。この時に尾崎神社の「護摩堂」(護摩を焚き祈祷する建物)を譲り受け、長田菅原神社の拝殿として移築されたものである。したがって北陸では数少ない江戸初期に日光廟式社殿である。
下図写真は重要文化財となっている現在の尾崎神社
社殿の前には、白地に「梅鉢紋」が描かれた提灯と狛犬が置かれていた。ここの狛犬は目の色が緑色の珍しいものだ。
社殿は雪囲いに覆われていて建物前面の様子を見れなかったのは残念でした。
お参りするために「雪囲い」扉から中に入った。お賽銭を入れて丁寧にお参りした後、拝殿の様子を見させてもらった。上のほうに「 長田菅原神社」の扁額が掲げられていた。その周りの柱や梁などは朱色の漆が塗られていた。中央の奥に本殿、そして両側に弓矢を持った「髄身像」が祀られていた。
拝殿前の上には「天満宮」の扁額が掛かっている。
ここには、江戸初期の権現造り総朱丹塗りの建造物として、手挟み、蟇股、桝組戸などの建築技法を使い、唐戸、蟇股に施された白い花や鳥などの彫刻に極彩色が使われている。軒の支輪に加賀藩で好まれた吹き寄せの手法が用いられているのは、尾崎神社の拝殿・幣殿などと共通した意匠であるという。
拝殿総朱丹塗りの復元工事に合わせて、屋根ななども新しく改修されていた。
参道横の「手水舎」の前に、この建物が金沢市の指定文化財である立て看板があった。
江戸の初期の1643(寛永20)年に4代藩主前田光高公が金沢城内の甚右衛門坂の上の北の丸に徳川家康公を祀る東照宮を建立し、これを「金沢権現堂」といっていた。時代が変わって1873(明治6)年神仏混交廃止により、仏像仏具が取り除かれ「尾崎神社」と改称された。しかし明治9年に金沢城が旧陸軍の所管となり、明治11年に尾崎神社の建物のほとんどは丸の内の現在地に移転した。この時に尾崎神社の「護摩堂」(護摩を焚き祈祷する建物)を譲り受け、長田菅原神社の拝殿として移築されたものである。したがって北陸では数少ない江戸初期に日光廟式社殿である。
下図写真は重要文化財となっている現在の尾崎神社
社殿の前には、白地に「梅鉢紋」が描かれた提灯と狛犬が置かれていた。ここの狛犬は目の色が緑色の珍しいものだ。
社殿は雪囲いに覆われていて建物前面の様子を見れなかったのは残念でした。
お参りするために「雪囲い」扉から中に入った。お賽銭を入れて丁寧にお参りした後、拝殿の様子を見させてもらった。上のほうに「 長田菅原神社」の扁額が掲げられていた。その周りの柱や梁などは朱色の漆が塗られていた。中央の奥に本殿、そして両側に弓矢を持った「髄身像」が祀られていた。
拝殿前の上には「天満宮」の扁額が掛かっている。
ここには、江戸初期の権現造り総朱丹塗りの建造物として、手挟み、蟇股、桝組戸などの建築技法を使い、唐戸、蟇股に施された白い花や鳥などの彫刻に極彩色が使われている。軒の支輪に加賀藩で好まれた吹き寄せの手法が用いられているのは、尾崎神社の拝殿・幣殿などと共通した意匠であるという。
拝殿総朱丹塗りの復元工事に合わせて、屋根ななども新しく改修されていた。