2019年2月18日月曜日

大蓮寺 涅槃会

今回は、野町にある豪姫の菩提寺として有名な「大蓮寺」で、「涅槃会」の法要があるということで行ってきた。(2月10日)



















「大蓮寺」は1604(慶長9)年に加賀藩祖前田利家に仕えた荒子七人衆のひとりの小塚淡路守秀正は前田利家が金沢城に入城後に、七尾の西光寺住職を招いて御馬屋町(現:木の新保)に建立したが、後に当地が御用地になったため、現在の野町に移ったという。















本堂の玄関の唐風屋根の下の方に、波状に掘られた細やかな彫刻が見られた。



















本堂の脇に「延命地蔵尊」が祀られていた。



















お寺の裏の墓地には、「豪姫」の供養塔の横に「宇喜多秀家」の供養塔が建てられ、400年ぶりに一緒に並べられた。



















豪姫と秀家の位牌とともに、奥にあるのは豪姫が秀家と2人の息子たちの無事を祈ったという念持仏の「聖観音」がある。



















入滅されたお釈迦様を多くの弟子や動物たちが嘆き悲しんでいる涅槃図は何度か見たが、ここの絵は横たわるお釈迦様は黄金色であった。



















本尊の前には、檀家さんのご子息の娘さんが描かれたという「豪姫」の絵や八丈島の二人の像とともに美しい夕焼けの写真などが飾られていた。住職さんが八丈島へ行ったときに撮ったもので、こんなにきれいな写真はなかなか撮れないう自慢の作品だ。二人の像はこの西日の方向にある「備前岡山」を見つめているという。



















「本尊」と「お釈迦さんの涅槃会」前で読経が終わった後に、住職さんのお話を聞いた。宇喜多秀家は秀吉の五大老(徳川家康、前田利家など)のひとりで一番若かったという。秀吉の朝鮮出兵の時に朝鮮の子供を数人連れてきて、八丈島に流された後、豪姫が加賀藩に連れてきた。そのうちの一人が小姓頭となった脇田直堅だという。関ヶ原の戦いは徳川家康と石田三成の対決と言われているが、実質の大将は五大老のひとりだった宇喜多秀家だったろうという。闘いで敗れた後、息子2人は秀家と八丈島へ、娘2人は豪姫とともに加賀藩に連れてこられたという。ほかに家臣たち13人がいたという。そして豪姫が3代藩主利常に懇願して八丈島に、米や薬などの物資を送ったが、明治になるまで約260年間送り続けたという。明治になって流刑が解かれて8家が東京板橋(加賀藩下屋敷)に帰ったが、また八丈島に戻った人もいるという。



















お話が終わった後に、恒例の涅槃会の餅がまかれた。一生懸命に受け取ろうとしたがなかなか取れく、下に落ちたのを拾うしかなかった。。
















昨年、八丈島で行われた法要の写真や新聞記事が飾られていた。八丈島との交流を続けるために今年の11月にまたに行くという。