旧二中の「三尖塔校舎」を見た後「暮らしの博物館」の中で、「金沢の近代建築史」という題で、金沢工業大学の竺 寛暁教授から講義をうけた。
幕末から日本は西洋建築を受容したが、、その当時の西洋建築は、様式折衷主義建築で、古代ギリシャ、ローマからバロック、ロココにいたる様々な様式が混在していた。その後に明治末期から様式折衷を脱して、機能に基づく新しいデザイン、いわゆるモダニズム建築を受容しているが、これらを総称して近代建築と呼ぶという。
金沢の近代建築の走りとなったものが「尾山神社の神門」である。(その前に、今の山崎山付近に西洋建築としてデッケン館があるが)
この神門は、当時区長をであった長谷川準也(のちに2代金沢市長)が、明治以降に侍がいなくなり、金沢の町が衰退したため「金沢再生」の願いを込めて、「永代にわたって荘厳さを失わない堅牢な神門を建てたい」ということで、かねてより腕を見込んでいた大工棟梁・津田吉之助に設計を依頼した。吉之助は富岡製糸場や工部省製糸試験場などを見学した後、1か月で「下絵」を作った。
「金沢市立玉川図書館蔵」
この神門は、三層楼門の外観をとり、和洋中混合のあたかも竜宮を思わせる変わった様相の姿をしている。
全体は木造の架構によって支持され、最下層の梅鉢紋を付けた三個の色の戸室石をアーチ状に積み重ね稚拙ながら洋風の技法を取り入れている。すなわち内部は木造で表面が石貼りである。
第二層と第三層は壁体は銅板葺とし、勾欄を廻している。第三層の大きな窓には五色のステンドグラスを入れ、かっては、遠く金石沖の海上を行き交う舟のための、灯台の役割をしていたといわれる。さらに上には、日本で最初だったといわれる避雷針がついているが、その当時の最先端の技術も取り入れている。
下の写真は明治30年ごろの尾山神社の神門付近の様子で、まだ、周りには建物が少なかったので、金石沖の船からもよく見えただろう。細くなっているが西内惣構堀の遺稿がまだ残っている。
その内部は欅の円柱や門扉の欄間は、伝統的な和風の手法も取り込んでいる。
この建物は伝統的な和風技法で洋風をつくることのよって生ずる意匠を擬洋風建築と呼ばれている。
石積みの下地には煉瓦が積まれ、白漆喰の壁で包まれている。この煉瓦の使用は、石川県内では最も早い例であるという。金沢市立玉川図書館の残されている神門計画図には明確に描かれている。現在も拝殿周辺の玉垣に残っている。この煉瓦を焼いたのは旧加賀藩士岸市之亟といわれる。
煉瓦の積み方には数の4種類があり、ここの玉垣は「ストレチャーボンド(長手)式である。後日、金沢のいろいろな積み方の建物を紹介する。
また、この異色の神門は、今新幹線効果で賑わっている金沢の名所の一つとなっている。
講座資料より