今回は、石川県歴史博物館で特別展として「金沢城下は大にぎわい」の展示をやっているということで見に行った。(※ これは確か10月初旬に見に行ったものです)
江戸時代、金沢はなんと江戸・大坂・京都に次ぐ人口を誇り、百万石の大藩として城下が栄えた。江戸時代の日記や絵画などから当時の人々にとって祭礼や開帳が行われていた社寺や芝居小屋、料理屋集などに集うことが大きな楽しみの一つだったことが知れるという。
下図は浅野川のにぎわいを示す「浅野川四季風景図」で、江戸時代後期の藩主への献上品として描かれたもので、画風や色彩などから加賀藩お抱え絵師佐々木泉景の筆と考えられる。
この絵図の解説が「城下町金沢の人々」の本に載っていたので、これをもとに紹介する。
この絵図の右端の立派な土塀に囲まれた寺は「静明寺」で、現在の地と変わらない。よく見ると境内には梵鐘があり、大きな松の木が茂っている。もう少し絵図を右手に開いていくと、権現山や医王山も描かれているだろう。
下図は「一文橋」で、いまの「天神橋」の所である。背後の山は「卯辰山」である。橋を渡る供を連れた武士はたぶん数百石取りの藩士で、挟み箱や籠を担いているのが小者であろう。
対岸には、町のはずれのため茅葺き、あるいは藁ぶきの家もあるという。
下図は、北国街道の浅野川大橋付近とその上流側の様子である。川の手前側が橋場町で、鳥居のある所が天道寺(現浅ノ川稲荷神社)である。河原には多くの人でにぎわっているが七夕の祭りであろうか、赤い提灯のようなものをぶら下げた木を飾っている人がいる。筵の屋根の下は仮の食事処であろうか多くの人がいる。川向こう側が観音町、東山の町並みである。白い塀の前を歩いている赤い帯の女の人は嫁入りの途中であろうか。
下図は、大橋から下流の橋(今の中の橋)付近である。大橋の両側には見番がある。川の手前は今の主計町付近の家並みが見え、河原にはやはり仮の食事処があり、人の出入りが多い。対岸には大きな屋敷が見える。橋の左側は「関助馬場」で多くの武士たちが馬に乗っている。
次いでに本に載っていた「金沢城下図屏風」(犀川口町図)を紹介する。
下図は、犀川大橋から片町に至る北国街道筋を中心とした犀川右岸の絵図で、狩野派の絵師「福島秀川」の描いたものである。街道の両側には大きな店が建ち並んでいる。しかしその裏にはまだ屋敷などが見えない。
下図は、犀川大橋上の人々の様子が描かれているが、城下に住む武士、僧侶だけでなく近郊の百姓や行商人なども描かれている。橋詰の大きな店だけだなく、橋上にいるような露天商などもたくさんいた。また、身分や職業によって着物も異なっていた。
犀川大橋北詰の絵図で、両側の建物は検番所である。検番所の前に木戸があり、両側に石置き屋根の大きな店が建ち並んでいる。白黒の暖簾が掛かっている店は、材木商が本業で玩具、小間物雑貨なども売っていたという。店の角には親から買ってもらった天狗の面をもって、うれしそうにしている。朱塗りの天秤桶をかついて木戸へ向かっているのは油売りの行商であろう。
犀川の大橋の下で鮎釣りをする武士の姿が描かれている。鮎釣りは武士の鍛錬ということで奨励されていた。
下図は、宮腰(現金石)に運ばれきた木材を筏に組んで犀川に上ってきた様子である。図では見えないが、筏に乗った二人が竿を操り、中洲の4人が筏に綱をつけて岸へ引き上げようとしている。