今回も、歴史博物館で「モダン金沢と大衆文化」というテーマでの展示がされていたので見に行った。(12月17日)
金沢は城下町として藩政期については、いろいろと調査資料があるが、明治、大正、昭和初期のことについては意外と少ない。
金沢は、明治維新直後は武士がいなくなり衰退していたが、明治後期になって、ようやく近代的な都市の諸条件を備えていったという。明治30年に金沢電気会社が設立され、家庭にも電灯がともり、明治41年にはガス事業が始まり、大正期になって金沢周辺の交通が整備され、大正8年からは街鉄(市内電車)が敷かれてから城下町は一変したという。
下の写真は、昭和初期に使われていた上部に氷を入れて冷やす冷蔵庫で、この形は私も見たことがある。
戦後の高度成長時代に普及した家庭電気製品の原型は、すでに大正時代から昭和初期に出来上がっていたらしい。この中で特にラジオは一般市民にとっての新時代の娯楽の目玉であった。
ちなみに金沢にラジオ放送局(JOJK)ができたのは昭和5年である。
このころのラジオは電源を必要としない「鉱石ラジオ」であり、レシーバでしか聞くことしかできない。
私が小学生の時に、どんなものだったかよく覚えていないが「鉱石ラジオ」を作り、電球の口金にワッカを挟んで聞いていたことがあるのを、かすかに覚えている。
初期のラッパ型スピーカ付き真空管ラジオはスピーカを鳴らすことができたが高価で庶民が買えるものではなかったという。
その後は組み立て方法の改良などにより、スピーカと本体が一体型になり、真空管も小型になった。
金沢は街鉄の敷設により拡張された街路には、石造や鉄筋コンクリート造のモダンな建物が建ち始めた。これを背景に金沢のモダンを象徴した、モボ・モガ(モダンガール・モダンボーイ)らによって「RINBOU」と親しまれた香林坊から「カフェ文化」が流行ったという。下の写真は「香林坊・赤玉」のカフェのポスター(写真はボケていても申し訳ない)で、今の「おでん屋赤玉」とは全く違う。
「モダン金沢」という金沢で初めてというタウン誌もできた。映画、カフェ、喫茶店などの記事が載っていた。
また、「北陸の宝塚」とうたわれた「粟ヶ崎遊園」や金石の「淘々園」など、大型の娯楽施設もできた。
この時代娯楽で何と言っても流行ったのが映画である。下の写真は家庭向けの「手動映写機」である。
尾張町にあった「昭和劇場」やそのころの映画のポスター
映画館で配られた配信ニュースで、次回の映画などの内容が詳しく描かれている。
戦争の真っ盛りの時には、士気を高揚させる内容に映画も変わっていったようだ。
戦争中に河北潟周辺の「蚊爪」辺りに作られた飛行場の地図が掲載されていたが、慌てて造ったことが想像される。