今回は、加賀藩が参勤交代で使った「北国街道」について、現在何か残っている場所を巡りたいとうことと、内の者が久しぶりに軽井沢へ行きたいということで、2泊3日で信州地方にドライブに出かけた。(10月下旬)
北陸高速道路の「上越インター」を下り、一般道路に入り、まず向かったのが「加賀道」と「奥州道」の追分の碑がある場所である。
この辺りは、高田の街並みで、全国有数の豪雪地帯で商店街の人の通路が雪が降っても歩けるように庇が長く突き出た「雁木」(がんぎ)がある場所である。この雁木は江戸初期からあるという。
金沢は、最近あまり積もらなくなっているが、この辺りはどうなのだろうか?
その追分の碑が建っているところを、この周辺で何人かの人に聞いたが、知らないと言われた。たまたまその日に「高田を巡るウォーキング」のイベントを開催していた「町屋交流館」で聞けばと言われ、やっと場所を知ることができた。この碑はもとは別の場所にあったが、交通の弊害になることから、この宇賀魂神社の境内の一角に移されたという。
続いて、「高田城」に行った。ここは石垣を持たない土塁づくりの城である。福井城とともに前田家を抑える城として1614(慶長19)年に江戸城を手本として築城されたという。初代城主は松平忠輝で、縄張りと総監督を伊達政宗が担当したという。
二の丸から本丸に架けられていた木造の反り橋の極楽橋が、発掘調査をもとに2002年に再建された。
輪郭式平山城で外堀に囲まれた城壁は、220m四方の本丸囲む形で二の丸、三の丸、北の丸が配置されていて、関川、矢作川、別所川などの川跡を利用されている。北国道や旧北国街道の接点に近い交通の要所にある。
築城当初は二階櫓であったが、1993(平成5)年に高田城のシンボルとして三階櫓の外観が再建された。
高田城の藩主松平家と将軍徳川家の関係する家系を見ると、初代藩主松平松平忠輝は徳川家康の6男であり、その後、1624年に藩主となった松平光長は徳川秀忠とお江の孫で、加賀藩4代藩主前田光高と従姉妹になる。徳川御4家となると高田藩が入るという。
外堀は、明治に入って食用の蓮根を採るために蓮が栽培され、東洋一の蓮と呼ばれた。
「北国街道を歩く」より
この近くに、日本のスキーの発祥といわれるレルヒ少佐を招いた髭の長岡外史はこの付近にある旧師団長官舎の庭に建つ。
「北国街道を歩く」より