金沢城下は大にぎわい(1)の続きで、次に藩政期に金沢の家柄町人で、金沢のにぎわい創出を支えた商家の一例として「宮竹屋」の歴史と文化が紹介されていた。
「宮竹屋」は、もともと加賀国能美郡宮竹村の出身で、天正年間(1573~1592)に金沢に移り宮竹屋と称し、寛永年間(1624~1644)に片町に移り明暦3年(1657)薬種商を営んだという。
延宝2年(1674)、3代伊右衛門の代に前田氏伝承する紫雪(しせつ)、烏犀円(うさいえん)、ぎ婆万病円の販売ならびに自家調薬を許されていた。
中屋彦右衛門、福久屋伝六に次ぐ金沢の三大薬種商として営み、江戸時代後期には金沢の町役人トップとして金沢の町政に関わる存在で、金沢の人々が楽しみにしていた神事能の運営や犀川・浅野川の両橋のかけ替え、困窮人の救済などに尽力し、一方では俳諧や茶の湯などをたしなみ、金沢の文化水準を高めてきた家の一つである。
金沢で繁盛していた商屋の所在地と名称を業種別に格付け表が並べられていた。業種は「薬種」、「酒造」、呉服太物」、「銘茶」、「和菓子」などが描かれ、薬種商では「片町 亀田」も最上段にある。
福島秀川が幕末のころに描いた「金沢城下図屛風」右隻部分の片町の中心部に大きな店構えの「宮竹屋」の本家と分家が載っている。手前の分家の方は酒屋で、菊酒の看板が掛かっていたようだが、隣に大きな酒蔵が見える。本家の方は薬種商の店ということである。
また、ここの4代伊右衛門(小春)の代に、10日間金沢に滞在した「松尾芭蕉」の宿を提供したことでも有名である。
その他、町人などによる日記の原本が並べられていた。この日記から江戸時代の娯楽などの様子が分かる。「梅田日記」は幕末の金沢町人で、浅野川河畔に住んでいた人で、この日記については興味があるので詳細については後日また紹介したい。
「金子鶴村」は、加賀藩の今枝家の儒臣として招かれ、日記は31年間分が残っているという。好奇心旺盛な博物主義者(広い分野にわたって知識が豊富な人)で、町人、武士らと荘子などの講釈会など文人サロン会などを開いたという。
「菱屋彦次日記」は、尾張町に住んでいた町人で、藩の出来事や自身、家族のことなどについてや社寺奉行など武士との関わりについても描かれ、社寺の開帳や山中温泉での湯治などにも触れている。
金沢町人の一人が選んだ100人の挿絵を添えた狂歌集を、寺町の料亭の古今亭で開かれたもので、金沢八景(戸室山日の出、一本松夕嵐、宮腰出帆、犀川夏月、粟ヶ崎帰雁)や100名の町人、医者、僧侶などの肖像画が収められているという。江戸時代後期には、このような茶の湯や俳諧、謡などのサロンが町人の間で盛んに開かれたという。