「御歩町」(おかちまち)は「藩政期、藩主を警護する歩(かち)が住んでいたことから、この名がついた。はじめ観音下御歩町と呼ばれていた」という。下図のように武士の階級では下のほうで、藩主の「御目見」(おめみえ)は「平士」までで、それより下級武士は許されなかった。
この辺りに、一時、徳田秋声が住んでいたことがあり、また、山好きの人が好んで見ている「日本の百名山」で有名な「深田久弥」も一時、この辺に住んでいたということを聞いたことがある。
「梅の橋」方向に歩くと、きれいに改修された土塀と門構え、屋根の勾配がゆるく、その下の白壁に梁が張られている武家屋敷があった。ここは「伊奈家住宅」の説明板が貼られていた。
また、その向かい建物にも説明板が貼ってあり、「こまちなみ保存建造物 來島家住宅 旧御歩町のこまちまみなみを象徴する貴重な歴史的建造物である」と記されていて、武士系建築の特徴をよく備えているという。向かいの「伊奈家」とは対照的で、玄関は格子戸で、壁がピンク色の こじんまりとした建物である。どちらも前庭には、雪吊された立派な松の木が立っていた。
続いて、浅野川の「梅の橋」の畔に建っている「徳田秋声記念館」に入った。ここは以前にも2,3回入ったことがある。
今回は「秋声の描く風土、金沢」というテーマで展示されている。秋声は「金沢の三文豪」のひとりである秋声は、実際は金沢を褒めることが少なかったというが、時々帰っており、郷里としての金沢をよく描いているのは愛着の表れではないかといっている。
このチラシの兼六園の絵葉書の写真を見ると、このころは、霞が池に屋形船が通っていたことが分った。
秋声が46歳の時に、母に会いに来て金沢城の付近が変わってしまったことに嘆きの感情を表している。兼六公園との間に変な橋がかかり、堀が埋められてしまったことをいっている。
金沢には二つの川があり、特に自分が育った浅野川についてよく描かれていて、山の傾斜の下に遊郭があり、鼓の音などが聞こえたといっている。鏡花は京都の鴨川とよく似たところといっているが、秋声は、ここは暗く、冷たい感じがし北国特有な処と描いている。
秋声にとって茶屋町は単に大人の遊び場だけでなく、子供のころに親に連れられて茶屋街の二階から見た風景についても描かれている。
秋声の親は旧武士であったので、版籍奉還で秋声の生家も放り出され家を転々とし、下図の写真の御歩町付近も住んだことがあるが、ここはまだ板葺きの石置屋根の家が多く、屋根の上から音がすると冬が近くなったことが分ると描いている。
金沢から2里離れた所に日本海があり、そこは北国の海で黒い波が来るといっている。その音が金沢の町にまで聞こえると描いている。夏の金石の海水浴の思い出よりも、冬の海鳴りの音の方が記憶に残っていると記している。
上記のように天邪鬼で素っ気無い秋声の言葉の裏には、そこに込められた郷里の思いが伝わってくるという。
その他、金沢に滞在中に「妻はま宛」や「室尾再生宛」のはがきなどが展示されていた。