横安江町へ向かう途中の十間町にある「松ヶ枝消防団」の前では、これから演技するための準備態勢に入っていた。
私が近江町市場の中を通って、市場の様子を眺めながら横安江町に着いたら、既に消防団員の人たちは来ていた。
そして、金沢駅前で演技を終えたあとの獅子舞の軍団が、駅前方面から武蔵の方にやってきた。
演技が始まる前の合間に、私の近くにいた獅子舞の軍団の一人から少し話が聞けた。「自分たちのグループは「浅野町校下獅子舞保存会」で「浅野神社」の春秋のお祭りや百万石行列の時に出ている。木越町などはもっと出ているし、自分たちは獅子を6頭持っている。」と言っていた。
最近、私はあまり見かけなかったが、旧市内以外では結構やっているらしい。
獅子の胴体は蚊帳(かや)というが、夏の寝床に使われた蚊帳がその名前の由来という。牡丹や獣毛の模様などが描かれている。蚊帳の中に囃し方が入って、笛や太鼓などを鳴らしているが、今回は、外で子ども達が鳴らしていて、闘いを盛り上げていた。
最初に、小学生の男女の子どもが棒振りになって、獅子と対決していた。
金沢市内の獅子は、桐材が多いが、白木のほかに漆塗りで金箔を施したものもあるという。今回のものは、金色というより黄土色の獅子だったが、どういう作りなのであろうか?重さは14kgというから、これを振り回すのはかなり大変だ。一人の人が主に持っているが、後ろの人がサポートしているようだ。
続いて、シャガンという毛頭を被った棒振りはで青年団の人が最初は二人で木刀で闘っていて、それを獅子が見届けているようだ。相手が足元に木刀を振り回すと、身軽に飛んだり跳ねたりしていた。相当練習していないとできない。
続いて、一人の棒振りと獅子の闘いが始まり、獅子の頭を左右上下などすばやく動かしたり、口を大きく開けて威嚇したりする。棒振りは身軽な動きと太刀捌きで獅子と対決する。
最後に女性剣士が「薙刀」を持って獅子と対決していたが、女性の棒振りは始めて見た。最近は政府でも女性が仕事に就くことを盛んに勧めているが、勇敢なことをやる女性も増えている。
続いて、「松ヶ枝消防団」の「加賀鳶 梯子のぼり」が始まった。
梯子のぼりは江戸時代に、火消しが火災現場で高い梯子を立て、天辺から火事の状況や風向きなどを確かめたのが始まりで、高所での作業を行うための訓練、度胸、勇気をつけるために行われたという。この梯子のぼりを最初に行ったのが加賀鳶で、日本の梯子のぼりの元祖であるという。肩に赤い線の入った法被の人がまとめ役のようで、演技者は黒っぽい、その他の人は茶色っぽい法被を着ていた。
30歳という若い人が高さ6mの梯子に登り、まず梯子がぐらつかないか確認していた。そして命綱を付け、演技に入った。私が小さい頃見たときは命綱は付けていなかった。演技をする人は団員の中でも、特に体の柔らかい運動神経抜群の人だろう。下の写真は梯子の天辺1本で「大の字」をやった。
下の写真は「鯱(しゃちほこ)」をやろうとしていて、これからさらに形を決めるところ。鯱は水しぶきを上げる海獣で防火の効があるといわれ、城郭などの屋根棟に付けられている。
梯子の下のほうには10人くらいで長い鳶口と短い鳶口を持って、しっかり梯子を支持しなければならない。
演技をする人が、形が決まった時に手を広げて「ヤー」声をかけると、纏を持っている人は2度振り上げて「ヤーヤー」と掛け声をかけていた。法被の後ろには「金沢」や「梅鉢紋」が付けられていた。
加賀鳶はもと前田家江戸屋敷消防隊として編集されたのが始まりで、1718(享保3)年の江戸本郷の大火で、他の鳶と加賀鳶が火消しの先陣を争って喧嘩となり、相手方の一人が殺されて、相手方は下手人の処罰を迫ったが、5代藩主綱紀は毅然として応ぜず、江戸町奉行の大岡越前守の裁きで加賀鳶が勝ち、江戸中にその名をとどろかせた。出初式はその伝統を受け継ぐものであるという。
「加賀の祭り歳時記」より