2015年3月4日水曜日

玉泉院丸庭園(1)

今回は、北陸新幹線開業に合わせた金沢の新観光名所としての最大の目玉であり、ここには大勢の観光客が訪れるであろう「玉泉院丸庭園」を、開園(3月7日)に先がけて見物会があったので行ってきた。




















藩政期には城外の「兼六園」は、幕府から派遣された目付(めつけ)役らを接待する場所だったのに対し、城内の玉泉院丸庭園は、藩主や家臣らが景色を楽しむプライベートな空間だったとされる。
玉泉院丸はもともと「西の丸」と呼ばれ、前田家の重臣の屋敷があったと伝えられている。2代藩主利長の死後、正室の玉泉院(信長の4女)が屋敷を構えたことから玉泉院丸と言われた。玉泉院の没後に空地となっていたが、3代藩主利常が京都から庭師を招いて造営した。利常自ら差配したといわれている。その後、5代綱紀が元禄元年(1688)には千宗室に命じて、御亭や露地、花畑などを整備している。また13代斉泰は「カラカサ」亭を設置したとの記録があるという。
明治になって、旧陸軍などによって大きな改変があり、戦後は県体育館が建設されるなど、かっての庭園の面影は全く失われていた。しかし、平成20(2008)年に体育館が移転したのを契機に、石川県が発掘調査を行い、金沢城整備を行った。
そして、北陸新幹線開業に合わせて、江戸期の遺稿を保存した上で、かっての庭園を再現したものである。この再現は、発掘調査で確認された地形と最も近い嘉永3(1850)年の「御城分間御絵図(おしろぶんけんごえず)」を参考にしたという。(下図)




















この庭園の見所のひとつは、石垣群と池の底との高低差が22mもあり、これほど立体的で回遊性のある庭園は全国でも珍しいという。




















玉泉院丸庭園は、石垣群のパナロマを背景に、曲線的な水泉や木橋と石垣が目立つように園内のマツの高さは低くなっているという。




















石垣の後方には要塞形の唐破風・千鳥破風の出窓や意匠性の高い土台石垣の「三十間長屋」(重要文化財)の建物が見え、一層、城の中の庭園を引き出させている。





















江戸時代の庭園では、辰巳用水から引いた城内の二の丸から導水された滝の水源がひとつとなっていたが、今回は水量を安定的に確保するために「いもり掘」の水をポンプアップしているという。
石垣の積み方は通常、横長に積まれているが、ここは縦長や正方形に積まれた特徴のある「色紙短冊積」にV字形の石樋が組み込まれ、藩政期にはここから滝が流れていた。V字形の石樋は黒い「坪野石」で、ひときわ目立つ。




















下図の写真は発掘調査時の「色紙短冊積」の石垣の上から滝壷のほうを見たものであるが、ここに窪地があり、その底に大型板石を中心に大小の庭石で石組みを作り、玉石を敷き詰めていた。板石の手前に落水で抉られた滝壷状の窪みが見つかり、石樋から水が落ちていたことが裏付けられたという。











「玉泉院丸遺構確認調査 調査概要」より







石垣群の間に黒っぽい土が盛られていたが、この土は植物の種が飛んできて、この土に付着するとすばやく成長して根や草になるものだという。5月ごろには、この付近は青々した自然な草が生えると説明員が言っていた。




















この「色紙短冊積」の石垣の上からは庭全体を俯瞰する高い場所で、庭だけでなく、背後に広がる寺町台地に藩政期にあった大伽藍の「玉泉寺」(永姫の祈祷所)も見えたという。
次の写真は「色紙短冊積」の石垣の横にある「二の丸」に上がる通路から撮ったものである。