2014年11月4日火曜日

兼六園 千歳台(2)根上松、明治記念之標 

「花見橋」から千歳台に向けて渡り、左手に高さ15mの大きな黒松があるが、その根が40数本せりあがって2mにも達する見事な松で、兼六園の名物のひとつとなっている。




















13代藩主斉泰が、土を盛り上げて若松を植え、根を深く土で覆い、成長した後に土を取り除いて根を表したものと伝えられている。あまりに大きいのグロテスクな感じさえする。
根上りは値上がりに通じて縁起が良く、商売繁盛を願う木であるという。それでこれにあやかろうということで、この根をに触っていく人が多くいたが、木に悪い影響をもたらすということで柵をして触れなくなった。




















この左側にそびえ立っているのが「明治記念之標」である。この銅像は「日本武尊」(やまとたけるのみこと)で、1877(明治10)年の西南の役で戦死した郷土の人の霊を祀り、記念するために立てられた。
戸外に立っている日本最古の銅像で、銅器で有名な高岡で鋳造されたものであるという。
セメントなど接着剤を用いないで石の重さだけで組み合わせられていて、金沢城の玉泉院丸に使われていた庭石(自然石)を持ってきたものといわれている。


























ここに彫られている「明治記念之標」は西南戦争の官軍の総大将であった有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)が揮毫したという。熾仁親王の弟の威仁(たけひと)親王は14代藩主慶寧の娘慰子(やすこ)と結婚している。その意味で明治政府と石川県との結びつきを象徴しているという。それで戦争中に「金属供出令」の時でも免れたという。
戦前(昭和5~19年)に兼六園の今の時雨亭付近にあった14代前田慶寧の像は供出された。この像は写真で見る限りでは相当大きいものであったように思われる。















「ふるさと写真館」より





「明治記念之標」と彫られた「明」という字の右上は「ヘビ」で左上は「ナメクジ」そしてその下のほうに「カエル」を表した自然石が互いにけん制しあっているという。三者は動きがとれなくなってしまうという「三すくみ」になっているという面白い石が配置されている。




















この像の入口にある橋には渦巻き模様が彫られていた。
私の若かった時にはこの前に柵がなく、自由に中まで入れた。そして何番目かにある石の上にあるスポットに立ってこの銅像の鼻の穴の中から空を見ることができたのを覚えている。1991(平成3)年に解体修理をしてからは見えない。




















その頃、銅像の裏に廻って石碑に西南戦争で亡くなった人や参戦し人たの名前が彫ってあったのを見たことがある。





















この銅像の左右に立派なアカマツがあったが、これは当時に京都の東西本願寺から寄進された「手向松」(たむけまつ)と呼ばれるものであるという。この銅像が完成し、記念式典で東西の本願寺の僧侶が法要のお経をあげたことで手向けたものという。

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