2022年11月30日水曜日

木屋藤右衛門の歴史(1)

 今回は豪商の木屋藤右衛門家の歴史について紹介する。

木屋家の起源は「加能郷土辞彙」には、「木谷家の祖先は、南北朝争乱の折、京都を離れて近江の吉井庄にくだり、吉井藤右衛門を名乗って、近江城主の京極氏につかえた。1568(永禄元」年9月、織田信長が近江18城をぬくに及んで、大津を去り、朝倉義景に仕え、木谷を領して木谷姓を名乗った。

1573(天正元)年に義景が亡んだのち浪人となって越中砺波の瑞泉寺に身を寄せ、さらに佐々成正にも使えたが、やがてそこを去り、加賀粟崎に来て船商売を業し木屋と唱えた。天正3年、秀吉が越中を平定したさいに、蝦夷から買い求めた諸産物を献じて知遇へ得、同18年には前田利家にも目通りし、朝鮮の役には持舟をもって敦賀の倉米を肥前の名護屋に輸送するなどして、確固不動の地位を築くにいたった。」という。

この記述とは別に「初代藤右衛門は、法名を道元と言い、1656(明暦2)年72歳で没した。元祖はさらに7代前にさかのぼる西国の武士で、兵乱のため北國に罷り下り、石川郡粟崎村に居住するようになった。紋どころは四目、古具足・系図・書付なども代々持ち伝えている。」さらに「初代から廻船業とともに材木商をするようになったので家名を木屋と改め、さらに武士を忘れて商いに徹するために、紋所の四目を子孫にさせないことになっている」と述べられている。

























木屋家が歴史上、頭角を現すのは寛文の頃からで、木屋家は材木商と廻船業をしていて重要な意味があった。というのはこのころ花形の商売で、材木は各地の城下の発展と相次ぐ火災によって需要が増大し、海運においては河村瑞賢による西周りの海運の開発などによって、江戸・大阪を中心とした全国市場の形成が図られ、米・材木をはじめ諸商品の動きが活発となっている。加賀藩の場合も、全国屈指の大城下町金沢があり、慶安から明暦にかけての改作法成立後、藩権力による流通経済の統一的掌握などの積極的な移出が行われ、地元海運業の発展が図られるようになった。
こうした中にあって、粟崎・金石は地の利を得ているだけに、発展する可能性をはらんでいた。ところで寛文の頃にの木屋家は肝煎役についているとともに、藩の「薪御用」および「御作事方御材木御用」つとめるなど、次第に頭角を現していて、海運業者としては傑出していたようである。そしてこの頃に粟崎での注目すべき出来事は、藩侯の別荘建設がある。これは1670(寛文10)年に5代藩主綱紀公が大野川・河北潟などで舟遊びのために休憩所として作られたもので、藩末までみられ、地元では「御旅屋」(おたや)と呼ばれ親しまれていた。

今の「粟崎小学校」の裏の階段を上った高い台に、休憩所と「粟崎御旅屋御亭」の案内板とがあった。1732(享保17)年に6代吉徳公、1787(天明7)年に治脩公が増改築するなど、何回も手入れが行われ、2階建ての建物だったという。松などが植えられ、日本海を通る北前船の目印にもなったという。













こちらから山側を見ると、うっすらと雪の積もった「白山」がきれいに見える。またすぐ近くからは「立山」と「白山」が両方も見えるという絶景の場所があると聞いた。



















海側の方向を見ると、海の手前の高台が見え、海は全く見えない。高台の手前は広いくぼみがあり、そこは大きな畑などになっている。


















5代藩主綱紀の頃から、藩の財政は苦しくなり、さらに6代吉徳の頃は次第に窮迫つげるようになり、藩祖前田利家以来蓄えてきた城内の金蔵の軍用金も底をつくようになってきた。木屋家の4代藤右衛門が頭角を現したのは、ちょうどその時代であった。この4代目は、藩に対しては「ご作事方御材木御用」ならびに「御算用場おかわせ銀等おかね御用」を務めており、すなわち材木・おかね御用・廻米といった藩財政の核心にせまる結びつきがあたとみられる。
この後宝暦9年に金沢大火があり、材木などを献上している。
10代藩主重教のときに藩の打開策として銀札発行により、逆に物価が上がり、暴動が起きるなど一層藩財政にとっては弱り目に祟り目、泣きっ面に蜂の状態になった。このような藩財政の行き詰まりに対して、5代、6代藤右衛門が木屋家の全盛期の活躍をした。5代の営業内容は、御用金調達、米穀・材木など諸商品の運送ならびに売買が主なもので、全国に及んでいたが、特に東北の青森・秋田・山形などは関係が深かった。そして財政の寄与から新たに5人扶持から10人扶持になり、さらに部組(配下に村を持たない)御扶持人十村並となっている。
安永5年には、藩主治脩が、ついで同9年には前藩主重教が木屋邸を訪れているという。このように木屋家は藩財政の深部までくいこみ、一大豪商として威勢を確立している。
6代目が当主となった時1873(天明3)年は、未曽有の凶作に見舞われ、全国的に飢饉に苦しみ死者も出した年である。加賀藩でも蔵米不足という深刻な事態になった。これに木屋家は「才覚米をもって御蔵入り御用達申し上げ候」とあるように、米を集めて差し出し急場をしのいでいるという。この時点で木屋家は大阪廻り23隻、および近回り6隻と29隻があり、そのうち千石以上が10隻あったという。