2022年8月29日月曜日

七尾 小丸山公園 花嫁のれん展

和倉温泉に宿泊した後七尾市に行き 、まず「小丸山城址公園」に行った。ここは加賀藩祖前田利家が、1575(天正3)年に越前を制圧した織田信長から越前府中を与えられ、柴田勝家の「与力」となり「府中3人衆」のひとりとなった後、1581(天正9)年に信長から能登一国を拝領し、初めて国元大名となった。そしてここ七尾湾を見下ろす小高い丘に築かれた小丸山城の跡地である。














利家がここ小丸山城には2年足らずで、1583年には「金沢城」に入城している。この間は戦に明け暮れ、能登の領国支配は兄の「安勝」に城代を任せ、1582年には上杉謙信勢を攻略し魚津城を取り巻いたが、同年6月に本能寺の変で信長の悲報を受けて、小丸山へ帰城した。これを機に上杉に通じる温井景隆、三宅長持は石動山に陣取った。そして佐久間盛政や長連達の援軍を受けて、これを攻略した。後日、石動山へ行ってきたので、改めて紹介する。



















ここに「前田利家・松子」の像が建てられているが、平成13年にNHKの大河ドラマで「利家とまつ」が放映された年に「利家の出世城」として喧伝され建立されたという。


















「高濱年男・稲垣汀子親子の句碑」が建てられており、「冬は憂しといし七尾の花に来し」年男と「帰る気にもなかなかなれず山車に従き」汀子が刻まれている。


















小丸山城址の庭園で、七尾市民の憩いの場所となっている。


















小丸山から見える眺望で七尾湾と七尾城方面を見る。


















続いて、「小丸山公園」から「一本杉通」に向かうと「花嫁のれん館」があり、ここを見学した。




「パンフレット」より
















「花嫁のれん」は幕末から明治初期のころより、加賀藩の能登・加賀・越中に見られる庶民生活の風習な中に生まれた独自の暖簾である。花嫁が嫁入りの時に「花嫁のれん」を持参し、花婿の家の仏間の入口にかけられる


















玄関で合わせ水の儀式を終え、両家のあいさつを交わした後、花嫁は暖簾をくぐり、先祖のご仏壇に座ってお参りをしてから結婚式が始まる。
「合わせ水」とは、新郎新婦が年老いるまで仲良く連れ添い、同じ墓に入ることを誓うことをいう。花嫁が花婿の家に入るときに素焼きの杯に注いで飲み、花嫁が家の敷居を跨いだら、仲人がその杯をパンと打ち付けて割ってしまう。この杯をもう二度と使わないという意味で、この風習には花嫁に対して、嫁いだ家を再び出るないう戒めが込められているという。


















仏間には七尾仏壇、建具には田鶴浜建具を使い、この部屋の前に花嫁のれんをかけ、ここではその花嫁くぐりを体験できる。


















花嫁のれんの色や柄は時代ごとに流行り廃りがあり、麻や綿のものも見られるが、多くは絹で加賀友禅の手法が用いられている。


















明治初期のころのもので、「鶴亀」とめでたい名前だが、藍染めだけのもので地味である。
























「富士と鷹」は昭和初期のもので、青と緑の地味な色である。


















平成の「花嫁のれん」だが絹のちりめんがほとんどで、華やかな色合いになってきている。