2022年7月18日月曜日

総持寺祖院(1)

 今回は、輪島市門前町にある「伝統的建築物群保存地区」の「黒島」を見たいと思い、車を2時間走らせて行った。しかし「黒島」に着いたのは11時30分ごろとなったので、お腹もすいたので、昼飯を食べたいと思い、もう少し走らせて「総持寺」付近の「蕎麦屋」に入った。その後、昨年が創建700年という「総持寺」を先に見ることにした。ここには、以前から2度くらいは入ったことがあると思うが、何年前に入ったかは忘れてしまったし、その頃はあまりお寺に興味のなかった頃で、どんなお寺だったか全く忘れている。まずは、「三樹松関」の高い門をくぐった。



















この「三樹松関」は、明治の火災を免れた数少ない建物の一つで、上に扁額が掲げられ、700年の伝統を支えてきた正門である。
「総持寺」は、1321(元亨元)年に瑩山紹瑾禅師によって開創され、その後に全国に各地に発展し 一万数千の末寺を数えたが、不幸にして明治31年4月13日の火災にかかり、七堂伽藍の大部分を焼失してしまった。地元の人たちの長いもむなしくこれを機会に、神奈川県鶴見に布教伝道の本山を移すこととなったが、地元民や関係者の努力によって、次々と堂宇が再建され、火災を免れた伝燈院、慈雲閣、経蔵などの建物とともに、七堂伽藍が完成し、約2万坪の静寂な境内の山水古木と調和して、開山霊場を護る祖院として、ありし日の曹洞宗大本山総持寺の面影をしのばせているという。



















手水舎はわりと新しい建物で、屋根瓦下の軒には珍しく金色になっていた。


















その先の右手にある建物は「芳春院」で、前田利家の正室芳春院が1609(慶長14)年に建立したもので象山じょうん禅師が開山で、39代を経て今に至っているという。


















京都の大徳寺の塔頭の「芳春院」は有名で、私も2度行ったことがあるが、ここにも「芳春院」があった。






































参道の左側には加賀藩主6代前田吉徳公が寄進され、1743(寛保3)年の建立で、工事奉行大槻伝蔵の監督によって工事が進められ、建仁寺流の大工横山権頭吉春が棟梁となって建造されたもので、こけら葺き二層づくりである。


















堂内の一切経を納める輪造は、八角宝形造りで、地下に装置した轆轤によって回転するようになっており、漆塗り鍍金金具付きである。私が見た輪造の中でも一番美しさがあると思われる。江戸時代の建造物として石川県指定有形文化財となっている。








 









明治34年の4月夕刻に大祖堂より火災が発生し、広大荘厳な大小70余棟の建物や境内の草木なども炭儘化したが、この奥にある二本松は当時の勅使門の左前のあったが、この松のお陰でその幹は焼けたが、「輪蔵」を類焼から護ることができたので、その後この松を「火伏の松」と称した。
























ここの鐘楼(鐘鼓楼)は、朝夕に諸行無常の門前に響き渡る大鐘で、聞く人に心の安らぎを与えてくれるという。ここには鐘のほかに太鼓もある。
























鐘楼の向かいには「白山蔵」には展示物が置かれ、下図は大火前の江戸時代の総持寺の全体図である。


下図は絹本着色の色鮮やかな法衣を着た「瑩山紹瑾禅師像」の掛け軸である。