2021年8月24日火曜日

八田與一(よいち)の生家

 深谷温泉 石屋を出た後、そこから車で10分以内で近いと聞いていたので、この際と思い「八田與一(よいち)の生家」を見に行った。今町付近まで来たところで、よくわからなかったので、近くの人に聞いてたどり着くことができた。非常に立派な家でびっくりした。両親たちは、この辺ではさぞ大きな農家だったのだろう。與一が四高に通っていた時に、ここから広阪の校舎まで片道10kmを毎日歩いて通ったというからすごいものだ。




















家の脇に「八田與一技師誕生地」の碑とその功績が描かれた石板が建っていた。

































家は明治38年に建てられたもので、典型的な「アズマダチ」で、間口が6間と広く、切妻屋根の下の三角部分の白い漆喰壁に、太い三重梁と貫と束が重厚な感じがする。大屋根と1階の庇の間が狭いがスペースがあるので、2階は天井が低い部屋と思われる。
内部は「オイ」(広間)の部屋が中心で、その部屋を構成する6本の太い柱が、この家全体を支える基本柱となっている。このころの農家の大きな家は、こういう形態が多いという。



















「八田與一の生家」のすぐ裏に「與一」が通った「花園小学校」があった。この学校の1階に「花園異人館」という部屋がある。ここには「ふるさと異人館」にはない「八田與一」の様々な資料や台湾との交流活動などの様子が展示されているというが、夏休みで学校が閉まっていたので、残念ながら見ることはできなかった。



















校舎の前には「八田與一」の銅像が置かれていた。烏頭ダムのほとりにある銅像は、作業服姿で何かを考えているときのポーズで、視線の先にダムが見える。







「ふるさと偉人館」より

















八田與一の功績については、『ふるさと偉人館」に展示されていて、このブログでも掲載しているが、改めて紹介する。

八田與一は金沢市の今町に生まれ、一中、四高、東京帝大土木科へと進んだ。その後、台湾に渡り、不毛の台地と呼ばれた嘉南平原の灌漑に大きな功績を残した。




















大学時代のノートが展示されていたが、ダムに関する図らしきものと英語のメモ書き描かれていた。





















嘉南平原に堰堤長1237mで当時東洋一の烏山頭ダムと総延長16,000kmの給排水路を整備し、台湾一の穀倉地帯に変えたという。大型土木機械を使用し、また工事関係者が安心して働けるように町も作ったという。