金石界隈(8)海禅寺 銭五公園 涛々園の続きで、「金石町小学校」からさらに「三善製紙」の工場敷地を周るようにして行くと「旧鉄砲町」の標柱があった。町の形が鉄砲の形に似ていたところからついた町名である。
さらに大通りを大野町方面に進むと曹洞宗「海月寺」に出る。ここは、約200年前に医者毛利玄考が祖先の供養のために釈迦如来像を安置した釈迦堂を建てたのが始まりである。
開基は鉄砲尼で、若いころ「お鉄」といい、銭谷五兵衛の屋敷の女中として住み込んでいた、五郎島の娘であった。お鉄は銭五没落後、仏門に入り鉄砲尼となり銭五一族の菩提を弔うために1883(明治16)年に釈迦堂に入り庵室を増築した。その後1916(大正5)年に海月庵と命じられたが、後に宗源寺と改称され、1975(昭和50)年に海月寺に改称された。
また、2階には室生犀星が若いころに下宿していた部屋が、そのまま残っており、著名な作家がこの寺を訪れているという。
「犀星」より
境内入口に犀星が詠んだ「寒菊を束ねる人もいない冬の日」の句碑が立っている。また、金石町小学校の校歌は犀星が作詞したもので、犀星文学の香りが今でもこの金石に受け継がれている。
銭谷五兵衛の三男要蔵の墓で、河北潟の新田開発疑獄事件の首謀者として1853(嘉永6)年に宮腰の松原において磔刑になった。墓は近くで発見され、銭谷五兵衛100回忌にこの寺に移された。
藩政期には金石は土葬であったが、埋葬用地と疫病の観点から火葬と変更となった。灰塚は火葬後の残灰を集めて葬った石塔である。
「海月寺」の斜め向かいに「金石地蔵堂」があるが、堂内には「延命地蔵尊」の大きな地蔵尊が1体と小さな地蔵尊が約360体安置されている。