2019年11月11日月曜日

中央通り町の小路(3)

中央通り町の小路(2)の続きで、中央通りの一本裏道は「旧塩川町」といい、標柱には「加賀藩士、塩川安左衛門の屋敷があったところなので、この名がつけられた」とあった。
























さらに歩いて、左の小路に入ると「魚園」という老舗割烹がある。ここは、私が以前やっていたテニス仲間がやっている店で、忘年会などで2回ほど入ったことがある。今はその息子が仕切っていて、自分は3代目であると言っていた。今回訪ねた時には息子だけがいて、この店のことを少し聞いた。この建物は、屋根の瓦の先端に「鳥ブスマ」が付いているが、藩政期は武士だったという。



















奥の部屋の壁は以前から「紅殻色」であったという。また、障子戸や柱、梁の黒漆、照明もなかなか洒落た部屋で、ここで宴会などをやる処である。



















裏にある庭を見せてもらうと、灯篭や飛び石、木々など風情があり、建物はアズマダチであったので、藩政期にはこちらが玄関だったのか?



















その庭の塀の裏は小路があり、その向かいには、立派な門の両側に上方は瓦屋根と下方は笏谷石(?)からなる板塀の屋敷があった。「魚園」の息子さんは、自分の家よりさらに格上の武士だったといっていた。



















犀川沿いの道は、さらに細い道がある。この辺りは「旧茶木町」といっていて、その名前の由来がはっきりしないそうだが、たぶん茶畑がたくさんあったところか?
























人がやっと通れるほどの細い道がいくつかある。

























さらに進むと、「まつもと」という定食屋がある。ここは、確か最近の雑誌で紹介されていたところだ。どんなメニューがあるのだろうか?



















玄関の中には「藩政時代の金沢城」という絵が貼られていた。大名行列が木戸をくぐって、「石川門」に入る風景のようだが、面白い絵である。



















「犀川神社」の横には、2本の真っすぐな道が並んでいたが、ここは、藩政期には馬場があったところである。浅野川の「小橋」近くにあった「東馬場」すなわち「関助馬場」に対して、ここは「西馬場」や「犀川馬場」と言われた。この馬場は、現在の「昭和大通り」の向こう側まで延びていた。