2019年11月3日日曜日

片町。中央通り町の小路(1)

今回は、広小路から犀川大橋を渡って、すぐの信号のある場所の左側の小路を歩いた。この辺は両側に飲み屋街あり、夜は賑わっている所である。以前は「旧五枚町」といって、ここの住んでいた豆腐屋が家伝の豆腐製造販売で成金になって、税金が金5枚だったのでそう呼ばれるようになったという。
























大通りに沿った一本裏道は、ここもやはり飲み屋街が多いが、以前は「旧古寺町」といって藩政初期この地に寺が集められていたが、元和のころになってそのほとんどを寺町台へ移し、跡地をこの名で呼ぶようになった」という。この細い道にお寺がどんな風に並んでいたのだろうか?

























旧元五枚町」をさらに奥に行くと「旧伝馬町」となるが、この辺りは、昔、犀川が片町を挟んで大小二筋に分流し、片町は河原だったが、3代藩主利常のころに河川を改修や町地化を整備することにより中洲が町を形成し、この地区は「古寺町」・「長門町」・「伝馬町」などが次々と誕生したという。現在は、ほかの町会も統合され「片町」になっている。ここは、昔から飲食街が多かったが、今もその名残を受けて美味処が軒を連ねている。下図は藩政期のここら辺りの様子 

ここに「大野庄用水」が流れていて「五枚橋」が架かっていた。大正時代に作られらたと刻まれていた。



















その袂に「旧伝馬町」の標柱があった。「藩政時代、藩用の人や荷物を運ぶために66匹の伝馬が置かれたことからこの名がついた。藩初は橋場町付近に置かれていたという」。大野庄用水の水路を利用して藩用の木材を城や市中に運ぶための伝馬(公用荷役馬)が置かれ、ここにここに馬借や馬子・人足が住んでいたという。
























そのすぐ近くに、藩政期から染物をやっている「平木屋」がある。創業は宝暦年間(1751~1763年)250年以上で、加賀藩御用達の染物店で建物も古めかしく、暖簾も趣がある。店前のガラス戸やウィンドーに飾られた「染元」の幕も風情がある。



















店内に入ると、年配の人が長い電話中だったので、横の部屋でPCでデザイン画面を見ていた若い人から少し話を聞いた。今は3人で細々とやっているが、全国の神社などののぼり旗や店の暖簾などの注文があるという。この場所で絵付けや染付などをやり、犀川で糊落しをやっているという。こちらが本家で、菊川にある「平木屋」は分家であると言っていた。ちょうど作業中の上り旗が置かれていた。



















この建物は江戸時代末期のもので、中に天井が高いところがあり、太い梁が見え古い町家の風情を醸し出している。



















さらに進むと、なかなか洒落た古風な店があり、店の隅に「上伝馬町八十四番地」と書かれた「昭和モダン」風の看板が目についた。何屋さんかわからなかったが、近くで掃除をしていた叔母さんに聞くと「夜になったら『焼き鳥屋』になるよ」と言っていた。



















向かいの「焼肉屋」の2階では、昼間から若い人たちが宴会をやっていた。その後、若者たちが出てきたが、話しっぷりからどうもアジア系の外国人のようであった。



















「大野庄用水」の「五枚橋」の一つ下流には「長門橋」が架かっている。この辺りは「旧長門町」で、藩士の「山崎長門」の邸宅があったという。この橋の先には、ついこの前まで「小橋菅原神社」があったはずだ。



















この橋の横にきれいに改修された「金沢町屋」の銘鈑が貼られた家があった。2階の前に剣を持った小さな神(?)が掲げられていた。