山門は江戸時代のもので古めかしく、また高くなって上に上がれるように周りに手摺が付いている。「上に上がって太鼓か何かを鳴らしていたのでは」とここの住職が言っていた。
その横には、石垣積みの基礎上に「名号塔」が建っている。方形枠に一段掘り下げて「南無阿弥陀仏」と花押が刻まれている。江戸後期に活躍した「義賢」が揮毫した。
ここは、江戸時代から地蔵信仰霊場のひとつであったという。山門の裏にも地蔵さんが置かれている
法報会の会員より新しいお地蔵さんが境内に安置されていて、地蔵祭りが行われる。
地蔵大菩薩四十八か所詠歌にも巡拝46番目に指定され、御詠歌もある法報会の地蔵建立の目的は、自分一代で絶えてしまう家、また、仕事の本拠地が遠方であるために、お参りに来れなくなってしまうであろう人々の祖先の霊をその地蔵尊に守っていただくことである。
このお堂の中には「薬師如来像」が祀られているという。薬師講が盛んであったことがあり、そのお祭りの時は露天商も建ち並ぶ賑わいを見せていたという。
「義猫塚」は「法船寺のねずみ退治」という昔ばなしに関連する石塔である。代々の住職が「義猫塚」として手厚く祀っているという。
この話は享保年間に存誉上人が住職をしていた時で、この法船寺に年老いた大鼠が住みつき、お経や仏具などを食い荒らすので、飼っていた猫に「あのドロボウネコを退治してみよ」と話しかけたが、「自分だけではできないので、能登にいる強い猫を呼んでくる」といって姿を消した。数日たったころに、本堂の天井裏でものすごい格闘の音がした。そして天井の隙間からポトリポトリと血が落ちてきた。天井裏に上がってみると猫より数倍大きいネズミが食い殺され、二匹の猫も力尽きて死んでいた。手厚く上人がなきがらを埋葬したのが「義猫塚」という。
このお寺の裏側には多くのお墓があった。
「法船寺」前の大通りに「旧寶船寺町」の標柱ががあった。「寛永の大火のあと、犀川大橋詰にあった法船寺がこの地に再建されて、門前町をつくり法船寺町と呼ばれた。明治4年、宝船路町に改められた。」とあった。