大通りから「西養寺」までは、曲がりくねった細い道を通り、高い階段を上る。山門の前から階段下を見ると、金沢の街並みが見え随分高台にあることが分かる。
山門をくぐり、右側には身代わり地蔵の「地蔵尊」と「観音堂」、「龍神堂」が置かれている。
「西養寺」の来歴は、寛正のころ(1460~1465)に、越前の府中において天台宗の盛学法師によって創建された。7代住職真運上人の時に、前田利家公がよく御参詣され、続いて利長公も上人への信望を深められ、利長公が越中守山・富山・高岡へと移り、さらに金沢の八坂に寺坊を建立した。その後、1612(慶長7)年に前田利常公より現在地を賜り、諸堂を再興して加越能の天台宗寺院の触頭を拝命された。
本堂に入ると、まず、数年前に小学生が「目が動いている、口が動いている」と言ったのが新聞に載り有名になった「釈迦出山図」を久しぶりに見た。よく見ているとそのように感ずるので不思議だ。
その隣には、近所のおばあさんが届けてくれた釜のお礼に住職がおばあさん宅に向かったら、おばあさんが亡くなっていたという話の「ゆうれい釜」が置かれている。
本堂では多くの人がお参りに来ており、涅槃会のお経が始まった。本尊は阿弥陀如来で両脇に勢至菩薩と観音菩薩である。内陣の周りには奉納された多くの「各種の如来や菩薩、明王」などの幕が張られていた。寄進者の中に「金箔のさくだ」の名前が描かれている幕が見えた。
西養寺の住職さんの後に、来教寺の住職さんの説話があり、涅槃会について分かりやすく説明してくれた。涅槃はお釈迦さんの入滅の日で、一切の苦しみから解かれ悟りを開くことである。全ての命はつながりの中で存在していて、自分を支える人に感謝と反省、恩返しをすることにより人は幸せになれるとお釈迦様が教えを説いている。戦国時代は、お寺は広かったので陣地として使われた。この近くの大衆目(馬場、森山地区)は社寺の道具を作っていたので、税を免除されていたなどのお話があった。
その後、恒例の「餅まき」がはじまり、お参りに来た人たちがたくさん拾うおうと一生懸命であった。
もらった「純金入りのねはん団子」は、青、緑、黄、ピンク、白色などのきれいな餅だ。檀家さんや近所の人たちが前日に準備するのも大変だったと思う。この餅を「お守り」として持つかあるいは味噌汁の中に入れたり調理して食べることにより「無病息災」や「家内安全」、「子孫繫栄」などの御利益がある。