2016年4月21日木曜日

東西別院付近(1)照円寺

横安江町商店街の北方向に「広見」があり、いくつもの通りが分かれている。この「広見」の向側辺りに、高岡の瑞龍寺や小松の那谷寺、小松天満宮、羽咋の気多大社、妙成寺などを建立した「建仁寺流」で有名な、あの「山上善右衛門」の屋敷があったという。




















「善右衛門」は「建仁寺流」を受け継ぐ加賀藩の大工で、1628(寛永5)に3代利常に仕え、1646(正保3)年に100石の知行が与えられ、上記の他に金沢城に関わる多くの社寺などを再建、建造に尽力した人である。




















「山上家」の隣に「照円寺」というお寺がある。ここは、3代利常の時に石川郡山島郷から現在の土地に移されたという。元々は、本願寺西末寺が現在地に再興されるに際して、留守居役として再建勧進の中心的な役割を果たし、加賀における西本願寺派の触頭として、また前田家の出城の役目も歴代にわたって務めたといわれる。
「照円寺」の由来は、本願寺の12世准如上人が御坊再建のために御下向され、「照円寺」の住職の慶空の功労を賞せられて、六字、九字、十字名号および和讃などの御染筆を下され「照円寺」の寺号と「准」の一字を給わり「准宣」と改名したと記されているという。




















門の横に龍が彫られた石壁があった。




















門から中に入ると、屋根が大きく広がった古めかしい梵鐘があった。





















新しく建てられた「宝物館」にはどんなお宝があるのだろうか?その横に「照円寺修復懇志者芳名」が載っていて、私が知っている人の名前もあった。




















本殿や他の建物もわりと最近建てられたようだ。本殿前の木々や刈込、灯篭、何重かの石塔も趣があった。
このお寺で私が深く記憶しているのは「地獄極楽図」である。小、中学生のころ何度か見に来ており、地獄絵図の非常に恐ろしかったことが印象に残っている。今から1000年前の平安中期に名僧源信僧都の著された「往生要集」に基づいて描かれたものといわれていて、八種の地獄と六道が描かれていて、毎年、春の彼岸に一般公開されている。まだ見てない人は一度見られたら良いと思う。




















本殿の中に入ると、金ぴかのなかに本尊の「阿弥陀如来」が祀られていた。天井の絵模様や照明もすばらしいものであった。




















私が55年以上前に来た時とは随分お寺の印象が変わっていた気がする。