2014年8月9日土曜日

金沢神社 ご神宝巡り

今回も「2014年まち博」で金沢神社のご神宝巡りに参加した。
金沢神社は何度か訪れているが中に入ったことはなく、神社の拝殿やここにあるご神宝が見れるということで、わくわくしながら行った。




















境内にあるもので、今回の宮司さんの説明で知ったものを紹介すると、拝殿の屋根の先端に大きな鳳凰があり、畳1丈もあるものだと言っていた。




















手水舎の水は「金城麗澤」から引いているもので、明治の初期に「お雇い外国人」として金沢に来ていた医学校教師のホルトマンがこの水を調査分析したことについての立て札があった。








































山門の横に「板屋神社遥拝所」という建物があり、辰巳用水を作った板屋兵四郎の「ご神体」が祀られて、この兼六園に水をめぐらした板屋兵四郎の命を偲んでいるという。




















拝殿に入ると「梅鉢紋」の垂幕がたくさん張られ、いろいろな絵や書が額に入って掲げられていた。
中央に掲げられていたのは前田家が先祖と言っている「菅原道真」に関連した「菅原大神?」の扁額だ。


























その横には竹沢御殿を建て、ここを鎮守神とした12代藩主斉広が描いたという書の扁額が掲げられていた。




















左横には白蛇を描いた扁額は、飲食や染物業など14関係者のよって奉納されたものだという面白い絵があった。




















天井には、大変怖そうな龍があったが、これは美大を出た後アメリカを放浪しながら絵を描いたという日本画家の山田俊一の「白蛇龍天井画」である。





















拝殿の奥にも多くの扁額が掲げられており、天井には小さく仕切った中に多くの絵がはめ込まれていた。




















そして平成20年に修復完成した獅子・狛犬が両側にあったが、これは斉広公が竹沢御殿の竣工を祝い奉納したものを修復したものという。




















また、拝殿の後ろのほうの畳の部屋に案内され、ここで保管されている多くのご神宝を拝見できた。床の間の壁に13代藩主斉泰や15代当主利つぐ、斉泰の長女、次女らが書いたという掛け軸が飾ってあった。


























その他、「金城麗澤」の天井に「白蛇龍神」の絵があるが、これを書いた「広田百豊」の「桃」の絵の掛け軸や、白山の作品で有名な日本画家の「玉井敬泉」が描いたという昭和のはじめごろの「金城麗澤」の絵の掛け軸も見ることができた。








































また、7歳のときに描いたという2代将軍「徳川秀忠」、後水尾天皇や1000年位前の天皇の掛け軸があった。どれも同じような文字で、昔から最高の位にあった人が7歳のときに書くという慣わしがあったのであろうか?


























これらご神宝の多くは前田家の鎌倉の別邸にあったものを持ってきたという。

また、兼六園の「さざえ山」の宝塔の中にあったという13代斉泰の像の写真を見せてもらった




















明治の初めに前田家が東京に移ってからは融資してくれる方がいなくなり金沢神社の維持も大変だったらしいが、昭和40年ごろからは「学問の神様」として受験のお参りが多くなり息を吹き返しているといっておられた。
それと太平洋戦争中は現在の18代当主の利祐(としやす)さん(当時10歳くらい)や15代利嗣(としつぐ)の奥さん(当時80歳くらい)たちはこの金沢神社に疎開されていたという。

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