東山茶屋街左後方に、以前このブログでも紹介した「菅原神社」があるが、またその後ろに大きな神社の「宇多須神社」がある。
ここは718(養老2)年に卯辰村一本松に多門天社として創建された。後に今の地に遷座し、俗に「毘沙門さん」と呼ばれて親しまれている。
1599(慶長4)年に加賀藩祖の前田利家が亡くなり、2代利長が利家の御霊を祀るため、金沢城の鬼門の方向(北東)に社殿を建て「卯辰八幡宮」と称した。
明治時代になって町中に武士がいなくなり、活気がなくなったので金沢再生のために、明治6年に利家の神霊は、現在の尾山町に社殿を造営し、尾山神社に遷座された。
ここは社殿を改修し、毘沙門天を合祀し、卯辰山の古名である「宇多須神社」として新たなスタートをしたという。ここは「金沢五社」のひとつである。
2月3日の節分の日には、ここの社殿の前で「ひがし」の芸妓さん達が一同に集まり、「舞」を披露し、その後集まった人たちに「豆まき」をする行事があり、多くの人でにぎわうという。一度は見たいものと思っている。
また、境内の奥に5代藩主綱紀が幼少のときに「疱瘡」にかかり、3代の利常がここにある井戸の神水に酒を入れ「酒湯」として体にかけて治ったという井戸があった。
次に、「宇多須神社」の横にある道を歩いた。すぐに金沢でも名だたる高級料亭「山乃尾」がある。
ここは高級というイメージがあり、私はまだ入ったことがない。
ここで全国的に有名な工芸、書、食の総合芸術家である「北大路魯山人」が、金沢の文人の「細野燕台」の紹介で「山乃尾」の初代主人の太田多吉から料理の味付けや盛り付け、器との調和などを習い、これをきっかけにその後東京で「星ヶ丘茶寮」という美術鑑定や高級料亭を開業したという。
さらに行くと、非常に急勾配名坂「子来坂」があり登った。
ここは幕末に14代藩主前田慶寧が「卯辰山開拓」を行ったときにできた坂で、「旗や纏を立てた町民がまるで子供のようにはしゃぎながら坂を上がってきた」ということから付いたという。
この坂を上りきる手前で右に階段を上ると「宝泉寺」がある。ここまで上がると結構息が上がって、汗が吹き出てきた。
ここは「摩利支天」を本尊としているが、前田利家が戦場に行ったときにいつも冑の中に守護神として「摩利支天」を入れていたといわれる。
また、境内の傍らにここにも芭蕉の句碑「ちる柳 あるじも我も 鐘をきく」があった。
そして大きな「五本松」があったが、ここは泉鏡花の作品の「町双六」の舞台となったところである。
その先に見晴台があったが、ここからは金沢の町の半分くらいが一望できる。(小立野台地の向こう側は見えない)
兼六園、金沢城や浅野川もはっきり見え、すばらしい眺めである。
東山を訪れる観光客や地元の人には、坂を上がる元気があれば是非見てもらいたい場所である。
「子来坂」を降りると東山のメイン道路の隣の通りも観光客でいっぱいだった。
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